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  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見た紫微垣

    奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと思われる。天井画は、円形の金箔で星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものである。中央には北極五星と四鋪四星(しほしせい)からなる紫微垣(しびえん)、その周囲には二十八宿を表す。これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣は天帝の居所を意味している。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見た琥珀

    石室に安置されていた棺は、わずかに残存していた残片から、漆塗り木棺であったことがわかった。石室は鎌倉時代頃に盗掘にあっていたが、副葬品や棺の一部が残っていた。出土品は漆塗り木棺の残片のほか、棺に使われていた金具類、銅釘、副葬品の大刀金具、海獣葡萄鏡、玉類(ガラス製、琥珀製)などがある。中でも隋唐鏡の様式をもつ海獣葡萄鏡と、棺の装飾に使われていた金銅製透飾金具がよく知られる。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見た漆喰

    壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像の持ち物が『貞観(じょうがん)儀式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人(とねり)ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見た朝日新聞

    2003年3月、国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会が設置され、翌2004年6月には「緊急」を「恒久」に変えた国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会が発足した。同じ2004年6月には『国宝高松塚古墳』(文化庁監修、中央公論美術出版刊)が発刊され、壁画の劣化、特に西壁の「白虎」の著しい劣化が明らかとなった。2004年6月20日付け「朝日新聞」大阪本社版朝刊が「白虎」の劣化を大々的に報じたことで壁画の劣化問題が一般国民の関心を引くこととなった。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見た高句麗

    堀田啓一(高野山大学教授)は高句麗の王族クラスが被葬者であると主張している。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見たショウガ

    高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環であった。奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄の指揮のもと、現場での発掘は伊達宗泰と関西大学助教授の網干善教を中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによって行われた。石室(せきしつ)が検出され、鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは同年3月21日のことである。古墳は1973年4月23日、特別史跡に、また極彩色壁画は、1974年4月17日に国宝に指定されている。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見た青竜

    壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像の持ち物が『貞観(じょうがん)儀式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人(とねり)ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見た四神

    壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像の持ち物が『貞観(じょうがん)儀式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人(とねり)ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見た情報公開

    2001年から2002年にかけて起きたカビの大量発生と西壁の損傷事故については第三者による調査委員会(高松塚古墳取合部天井の崩落止め工事及び石室西壁の損傷事故に関する調査委員会、座長:石沢良昭・上智大学学長)において再調査された。同委員会は2006年6月19日に報告書を国へ提出。そこでは、文化庁の縦割りセクショナリズムの弊害、情報公開への意識の低さなどが指摘されている。高松塚古墳の場合、特別史跡である古墳自体は文化庁記念物課、国宝である壁画は美術工芸課(2001年1月より美術学芸課と改称)の管轄であり、両者の連携が十分ではなかったとされている。2001年2月の天井崩落防止工事に伴うカビの大量発生については、作業員が滅菌した防護服を着用していなかったことが原因とされている。この工事は記念物課が発注したが、現場の管理は美術学芸課にまかせきりで、記念物課の職員は工事に一切立ち会わなかった。東京文化財研究所には工事を実施すること自体が知らされていなかった。また、防護服の着用などを定めた「保存修理マニュアル」の存在も現場に周知されておらず、結果的にカビの大量発生を招いた。しかも、カビ発生の事実が公表されたのはそれから2年も後のことであった。2002年1月には前述のとおり西壁の2箇所に損傷が生じているが、文化庁はこの事実を公表せず、傷が目立たないように補彩していた。補彩は上記の西壁の2箇所以外に東壁、北壁、天井にも行われていたがこれについても公表されなかった。また、西壁損傷事故の2年前の2000年3月21日に撮影された(損傷前の)壁画写真を「最新の写真」と偽って新聞社に提供していたことも明らかになった。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

  • 高松塚古墳

    高松塚古墳から見た特別史跡

    高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環であった。奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄の指揮のもと、現場での発掘は伊達宗泰と関西大学助教授の網干善教を中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによって行われた。石室(せきしつ)が検出され、鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは同年3月21日のことである。古墳は1973年4月23日、特別史跡に、また極彩色壁画は、1974年4月17日に国宝に指定されている。高松塚古墳 フレッシュアイペディアより)

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