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鈴木香から見た全国高等学校柔道選手権大会
江東区で生まれたが、幼稚園の時に千葉の松戸へ移った。松戸馬橋高校に入学した時点でかなり太っていたこともあって痩せるために柔道を始めてみたが、監督である菊川慶一の指導の下で1年もしないうちに全国高校選手権60kg超級で優勝するまでになった。2年の時には強化選手選考会72kg超級で優勝すると、福岡国際でも3位となった。3年の時には金鷲旗の女子個人戦で優勝を飾った。1988年に筑波大学に進学すると、正力杯で2連覇を達成した。3年の時には体重別決勝で大学の1年先輩である坂上洋子を判定で破って優勝した。北京アジア大会では決勝で地元中国の張穎に効果で敗れた。4年の時には体重別決勝で愛知女子高校教諭の松本宣子を腕挫脇固で破って2連覇を飾った。世界選手権では初戦で旧ソ連のスベトラーナ・グンダレンコに合技で敗れた。1992年には大学を卒業してコマツ所属となった。体重別決勝では山形県教育委員会の坂上に効果で敗れて、バルセロナオリンピック代表には選出されなかった。1993年の全日本選手権では決勝で柳川高校2年の阿武教子に判定で敗れて2位にとどまった。世界選手権は阿武が2階級に出場する予定だったが、72kg超級で肩のケガをしたために代役で無差別に出場したものの、3回戦で張穎に有効で敗れると、敗者復活戦でもロシアのグンダレンコに横四方固で敗れた。1994年の全日本選手権と体重別の決勝でもそれぞれ阿武に判定で敗れた。広島アジア大会では3位に終わった。1995年の全国体重別選手権では優勝を飾った。その後引退すると、コマツのコーチを経て2001年からは愛知産業大学の女子柔道部監督を務めることになった。(鈴木香 フレッシュアイペディアより)
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前田桂子から見た全国高等学校柔道選手権大会
大学2年の時、1999年12月に同じ柔道選手の父を病気で亡くしている。最初はソフトボールの選手だったが、小6の時にアニメのYAWARA!に影響されて柔道を始めた。鹿島中学3年時に全国中学校柔道大会56kg級で3位となった。湊川女子高校に入学後は1年の時に全国高校選手権の61kg級決勝で福岡工大付属高校2年の日下部基栄に注意で敗れ、2位だった。2年の時には金鷲旗で同級生の古賀幸恵とともに活躍して決勝まで進んで福岡工大付属高校と対戦するが、日下部に払腰で敗れるなどして2位に終わった。インターハイの決勝でも土浦日大高校と対戦すると、アトランタオリンピック66kg級代表の一見理沙に大内刈で敗れて2位にとどまった。全国高校選手権の決勝では常磐高校2年の吉澤穂波を豪快な内股で破って優勝を飾った。3年の時にはフランスジュニア国際で優勝するが、金鷲旗決勝では柳川高校に敗れた。インターハイでも3位だった。(前田桂子 フレッシュアイペディアより)
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池絵梨菜から見た全国高等学校柔道選手権大会
米澤とともに東大阪大敬愛高校に進むと、1年の全日本カデでは決勝で嶺井に大内刈で敗れて2位にとどまった。全国高校選手権では決勝で松商学園高校の津金をGSに入ってから有効で破って優勝を遂げた。2年の全日本カデでは大成高校1年の鍋倉那美に内股で敗れて2位だった。金鷲旗では3位となった。インターハイでは3回戦で津金に足車で敗れた。その後階級を70kg級に上げると、全国高校選手権の個人戦では2階級制覇を達成した。3年になると、8月のインターハイ団体戦では香長中学時代に全国中学校柔道大会の団体戦を制したメンバー(米澤と斉藤芽生)とともに再び優勝を勝ち取ると、個人戦でも優勝して2冠を成し遂げた。なお、全日本監督の南條充寿は池を、「体の力が強いし、オールマイティーに何でもできる。すぐ(代表候補に)上がってくる」と評している。9月の全日本ジュニアでは決勝で修徳高校2年の杉山歌嶺に有効で敗れて2位にとどまった。10月の世界ジュニアでは3回戦でフランスのマリー=イブ・ガイに敗れた。団体戦では準決勝以降63kg級の嶺井に出場の機会を譲る格好となったが、準々決勝まで全て勝利を収めてチームの優勝に貢献した。(池絵梨菜 フレッシュアイペディアより)