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田村勤から見た高橋由伸
以降は肩・肘の故障に悩まされる。翌1993年には、6月に故障から復帰。22セーブを挙げ、当時の球団記録である10連続セーブを達成(2008年4月23日に藤川球児が更新)したが1995年には一軍登板なし、1996年、1997年にはショートリリーフとして2年間で90試合に登板し復活するが、1998年にはまたしても肩の故障で二軍登板すらできなかった。1999年には野村克也監督に遠山奬志と共に対松井秀喜、高橋由伸などの左打者のワンポイントとして起用されるも、既に以前の球威はなく、気迫と投球術でカバーする投球に終始した。2000年オフに自由契約を言い渡され、オリックスに移籍。しかし、活躍はできず、2002年の最終戦となった10月14日の日本ハム戦で引退試合を行う。この試合で田村はプロでは最初で最後となる先発マウンドに立ち、先頭打者の森本稀哲を三振に取って降板した。(田村勤 フレッシュアイペディアより)
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第34回IBAFワールドカップ日本代表から見た高橋由伸
前年のシドニーオリンピック野球日本代表からプロ野球選手も代表入りするようになり、かつ今大会はペナントレース終了後であったことから、各球団から主に若手選手1名を供出することで比較的にスムーズに各球団の了承が得られた。さらに後藤監督は国際試合の経験が豊富なプロ選手として読売ジャイアンツから高橋由伸と福岡ダイエーホークスから井口資仁をも選出した。また、特筆すべきは歴代の日本代表チームとして史上初めて現役高校生の寺原隼人が選出された。(第34回IBAFワールドカップ日本代表 フレッシュアイペディアより)