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高畑勲から見た徳間書店
その後、宮崎が監督する『風の谷のナウシカ』に参加しプロデューサーを務める。この『風の谷のナウシカ』が成功を収めたことから、宮崎はこの映画で得た資金を有意義に使いたいと考え、今度は高畑が監督する映画を製作しようと提案した。その結果、水の都福岡県柳川市の風情をとらえた映画『柳川堀割物語』を撮影することになり、高畑が脚本・監督を務め、宮崎の個人事務所「二馬力」が製作を担当した。しかし、高畑があまりにも巨額な製作費を費やしたため、宮崎が用意した資金を全て使い果たした挙句、宮崎の自宅を抵当に入れざるを得ない事態となった。困惑した宮崎は徳間書店の鈴木敏夫に相談し、『柳川堀割物語』の製作費を回収するには、新作アニメーション映画を製作しその収入で賄うしかないとの結論に至る。その後、宮崎と鈴木は新作映画『天空の城ラピュタ』の製作を目指し奔走することになる。(高畑勲 フレッシュアイペディアより)
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高畑勲から見たシンエイ動画
1977年、Aプロダクション時代に面識のあった楠部三吉郎がシンエイ動画での『ドラえもん』の再アニメ化を原作者の藤本弘(藤子・F・不二雄)に持ち込み、藤本から「どうやって『ドラえもん』を見せるのか、教えてもらえませんか」と問われた際に、楠部は高畑の自宅を訪れ『ドラえもん』の単行本を読ませた上で、企画書の執筆を依頼した。高畑は目にした『ドラえもん』を「子供の心をぐいっとつかまえる力がある」と絶賛した上で企画書を書き、数日後に楠部と二人で藤本を訪れると、企画書を読んだ藤本はアニメ化を承諾したという。楠部は高畑を『ドラえもん』の「恩人のひとり」と記している。(高畑勲 フレッシュアイペディアより)
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高畑勲から見たテレコム・アニメーションフィルム
1980年、『赤毛のアン』が終わりのんびりしていた高畑のもとに、漫画『じゃりン子チエ』の映画化の企画が持ち込まれた。高畑は原作を熟読した上で「やってみたい」と返事し、その後、大阪の下町へのロケハンも敢行した。1981年に公開された映画は、非常に制約の多い中で制作されたにもかかわらず、興行的にも成功した。その後、TV版が制作されることになり、再び高畑の元へと依頼が来る。この時、高畑は引き受ける条件として、映画版で主役・竹本チエを務めた中山千夏、準主役・竹本テツを務めた西川のりおを起用すること、それ以外の声優に関しても、ナチュラルな大阪弁が話せる声優を起用すること、という条件を出したが、制作側がその条件を呑み、チーフディレクターを務めることとなった。高畑自身、この作品を非常に気に入っており、別名を使ってコンテを切ったり演出をしている。その時に使っていた別名は、本作で西川のりおが演じた竹本テツをもじった「武元哲」である。『チエ』が公開された1981年にテレコム・アニメーションフィルムへ移籍した。(高畑勲 フレッシュアイペディアより)
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高畑勲から見た瑞鷹 (アニメ制作会社)
ズイヨー映像(のちに日本アニメーションに改組)に移籍し、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の演出を担当、海外ロケハンや徹底的に調べ上げた資料を元に生活芝居を中心としたリアリズムあふれるアニメを構築した。場面設計だった宮崎駿、絵コンテを担当していた富野喜幸に与えた影響は大きい。『未来少年コナン』では数話のコンテ・演出を担当し、初監督で苦しむ宮崎駿をアシストした。(高畑勲 フレッシュアイペディアより)