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競馬の歴史 (四国地方)から見た高知城
高知県においては明治以前から祭典競馬が盛んに行われていた。また、1886年には国道(高知・徳島国道)開通を記念して高知公園東側広場に円形の馬場(1周約600m、幅員5-6m)を建設し、県内から100頭あまりの馬を集め、4日間にわたって競馬(マッチレースによるトーナメント方式による)が行われた。それ以降も、農閑期になると田畑を掘り上げて設置された臨時の馬場を用い、盛んに競馬が行われた。さらに1908年に競馬規程が制定されると、県内の数ヶ所に常設の競馬場が設けられ競馬が行われるようになった。(競馬の歴史 (四国地方) フレッシュアイペディアより)
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坂本神社 (南国市)から見た高知城
坂本龍馬の先祖は、源氏の流れをくむ明智氏であるともいわれ、近江から四国へ渡った際に、現在の南国市才谷に居を構えたと伝わる。後年、高知城下で今で言う質屋を開業するが、屋号は先祖の出身地である才谷の地名をとり才谷屋としている。そして、龍馬はこうしたいきさつを踏まえた事もあり、自身の変名を才谷梅太郎としたのである。この坂本神社の敷地内には、坂本家先祖の墓所を示す石碑および、龍馬の銅像と公園が整備されている。(坂本神社 (南国市) フレッシュアイペディアより)
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馬場辰猪から見た高知城
嘉永3年(1850年)、土佐藩士・馬場来八(小姓組格、のち馬廻役)の二男として土佐国高知城下中島町に生まれる。藩校「文武館」で学び、江戸留学の藩命を受けて慶応2年(1866年)、鉄砲洲にあった中津藩邸の福沢塾(後の慶應義塾)で政治史、経済学を学ぶ。その後、長崎に赴いて長崎英語伝習所にてオランダ人宣教師グイド・フルベッキに英語を習う。明治2年(1869年)、慶應義塾に戻り、のちに教師も務める。明治3年(1870年)、土佐藩の留学生として真辺正精、国澤新九郎、深尾貝作、松井正水らとイギリスに留学し、海軍や法学について学ぶ。イギリス留学中、土佐藩イギリス留学生らの団長を務める真辺正精と決闘を行い、真辺を負傷させている。明治7年(1874年)に帰国。翌年、岩倉使節団の一員として再び渡英し、イギリス滞在中に政府留学生となる。留学中、1873年出版の『ELEMENTARY GRAMMAR OF THE JAPANESE LANGUAGE WITH EASY PROGRESSIVE EXERCISES』(日本語文典)の序文にて、森有礼の国語英語化論を批判し、日本語論争などのちに「国語国字問題」とよばれるものに発展し、大槻文彦の『言海』や前島密らの漢字論などと共に「国語」以前の日本語論争の先駆けとなった。その後、フランスにも赴いた。明治11年(1878年)に帰国。この留学で辰猪の思想の中核となる言論思想の自由、「公議輿論」の重要さを学んだ。(馬場辰猪 フレッシュアイペディアより)