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満良親王から見た大高坂城
南朝再建計画の一環として、延元3年/暦応元年(1338年)9月牧宮懐良親王とともに伊勢大湊から出港して土佐に入る。新田綿打入道・金沢左近将監など四国の南軍を従えて、延元5年/暦応3年(1340年)正月大高坂松王丸の救援のため潮江山に布陣し、細川定禅の要請を受けた北軍と交戦するも、遂に敗北して大高坂城は陥落した。興国3年/康永元年(1342年)頃にはほぼ勢力を失って、西国へと落ち延びたらしい。その後の消息は不詳だが、遠江方広寺を開山したとされる臨済宗の無文元選や、正平6年/観応2年(1351年)周防で盛んに令旨を発給している常陸親王(ひたちのしんのう、以下の節で記述)は、花園宮の後身であるとする説がある。(満良親王 フレッシュアイペディアより)
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2008年自由民主党総裁選挙から見た高知城
9月13日(土) 街頭演説会(大阪府大阪市なんば高島屋前、高知県高知市高知城追手門広場・板垣退助銅像前)(2008年自由民主党総裁選挙 フレッシュアイペディアより)
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四国国分から見た高知城
九州平定ののちも、長宗我部氏は天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけての2度の朝鮮出兵に参加した。その間、香宗我部親泰は秀吉から大量の造船用材の供出を命じられ、元親自身も大船数艘の建造などを求められた。軍役等さまざまな負担は決して軽いものではなかった。その一方で元親は、この機会を利用し、支配体制の再編、検地の実施、慶長2年(1597年)3月には四男長宗我部盛親とともに分国法『長宗我部元親百箇条』を定めるなど諸法規の制定をふくむ新政策をつぎつぎに実行にうつした。また、元親・盛親父子は、本拠地を岡豊城(高知県南国市)から大高坂山城(現在の高知城)、さらに浦戸城(高知市)へとうつして、城下町の整備にも力を注いだ。(四国国分 フレッシュアイペディアより)