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宇都宮辻子から見た鶴岡八幡宮
宇都宮辻子は、鎌倉時代に鎌倉の鶴岡八幡宮から由比ヶ浜(相模湾)に向かって南北に延びる若宮大路の二の鳥居のすぐ南側(現住所では鎌倉市小町二丁目付近)にあった小道(辻子)で、若宮大路とその東側の小町大路の間を東西に結んでいた。下野国宇都宮社の神職で、平安時代末期に京で左衛門尉を務めるなど鎌倉幕府の有力御家人となった宇都宮朝綱ら宇都宮氏の鎌倉の居館がこの界隈にあったことからこの名で呼ばれた。鎌倉幕府(政庁)は第3代執権北条泰時によってそれまでの大倉から宇都宮辻子に南面する北側の地に移転され、宇都宮辻子幕府と呼ばれた。現在は宇都宮辻子幕府跡に宇都宮稲荷神社が鎮座しその面影を残す。(宇都宮辻子 フレッシュアイペディアより)
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大内惟義から見た鶴岡八幡宮
正治元年(1199年)、頼朝が死去した直後に起こった三左衛門事件では、首謀者の後藤基清らを拘束して院に引き渡した(『明月記』2月14日条)。正治2年(1200年)正月6日、鎌倉で椀飯の沙汰人を務めるが、同月24日には京都で梶原景時与党の追捕を命じられ、2月26日には2代将軍・源頼家の鶴岡八幡宮参詣に御後筆頭として随行するなど、京都と鎌倉を頻繁に往復していた様子がうかがえる。『吾妻鏡』ではその後しばらく所見しなくなり、建暦2年(1212年)3月20日、在京奉公の労により地頭職を拝領したとあるので、在京して鎌倉と京の連絡役を務めていたと思われる。この間の元久2年(1205年)の牧氏事件では北条時政により新将軍に担がれた異母弟の平賀朝雅が北条義時の命により誅殺されているが、惟義は事件に連座せず朝雅が有していた伊勢・伊賀守護を引き継いだ。なお『吾妻鏡』建暦2年(1212年)7月7日条には「駿河前司惟義」とあり、これ以前に相模守から駿河守に遷任していた。建保元年(1213年)8月の3代将軍・源実朝の移徙では、執権・北条義時の次位として随行している。(大内惟義 フレッシュアイペディアより)