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1月27日 (旧暦)から見た鶴岡八幡宮
承久元年(ユリウス暦1219年2月13日) - 鎌倉・鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁により暗殺。源氏の正統が断絶(1月27日 (旧暦) フレッシュアイペディアより)
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一幡から見た鶴岡八幡宮
鎌倉幕府北条氏編纂書である『吾妻鏡』では、家督相続は一幡に関東28ヶ国の守護・地頭職を譲り、時政が後ろ盾となっている千幡に関西38ヶ国の守護・地頭職が譲るとする決定に比企能員が反発し、頼家に讒言して時政と実朝の討伐を計った。時政が先手を打って能員を殺害し、一幡の住む小御所を襲撃して比企一族を滅ぼしたとしている。一幡と若狭局も、その時に一族と共に焼死したという。事件が起こった年の『吾妻鏡』正月2日条には、一幡が鶴岡八幡宮に参拝した際、巫女が神懸かり「今年中に関東に大事が起ころう。若君(一幡)が家督を継ぐ事はない。崖上の樹の根はすでに枯れている。人々はそれを知らずして梢の緑を頼みとしているのだ」と叫んだ、と一幡の死を暗示的に書いている。(一幡 フレッシュアイペディアより)
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和知八幡神社から見た鶴岡八幡宮
『芸藩通志』によれば、鎌倉時代の承元年間(1207年-1211年)に和知村の古城山城城主広沢与三実方が鎌倉鶴岡八幡宮より勧請したと伝わるという。実方は平安時代末の藤戸合戦における功績に因り建久3年(1192年)7月に備後国三谿郡の中、12郷を与えられて所領としたというが、そこには和知村は含まれていなかったと見られるので、実際には実方の孫の実村かその息実成の時代に勧請されたものと思われる。因みに実成は父実村の所領を兄である実綱と中分して和知庄を領した事から和知(智)氏を称し、また、乾元元年(1302年)に安芸国厳島神社を詣でた後深草院二条はその帰路、同年末に実成の居館に寄寓したが、その後兄実綱の居館に移った事が原因で実成兄弟があわや合戦という事態となり、彼女の知人で両人の「伯父」(実は従兄弟)に当たる広沢氏の惣領、行実の仲裁で事なきを得ている。(和知八幡神社 フレッシュアイペディアより)