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角地孫之助から見たJR九州硬式野球部
1937年、第11回都市対抗野球大会で角地は獅子奮迅の活躍をした。九州予選で、前年度の大会覇者だった門司鉄道局を破って本大会に出場すると、初戦で鷹取工機部(神戸市)に11-1で大勝。2回戦の大津晴嵐(大津市)戦では角地の登板機会は無かったものの、チームは4-3で接戦を制し、準決勝のコロムビア(川崎市)戦も6-5の大接戦を勝ち抜いた。そして、8月9日の決勝・東京倶楽部(東京市)戦に3-1で勝利し、チームを初優勝に導いた。この大会での活躍が認められ、橋戸賞(最高殊勲選手)に輝いた。翌1938年の大会でも活躍し、ベスト4の成績を残した(準決勝で、全京城〈この大会で準優勝。京城府〉に4-6で敗れた)。(角地孫之助 フレッシュアイペディアより)
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都市対抗野球大会 (福岡県勢)から見たJR九州硬式野球部
県勢は第1回大会に2チーム参加。1936年の第10回大会では、企業チームとして門司市・門司鉄道局が全国初の優勝を遂げるなど、華々しい活躍を見せた。(都市対抗野球大会 (福岡県勢) フレッシュアイペディアより)
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井上忠行から見たJR九州硬式野球部
八女工業高校卒業後、門司鉄道管理局に進み、1956年の都市対抗に出場。1957年に西鉄ライオンズに内野手として入団。1959年には一軍に定着、主に一塁手として起用される。1962年には、選手兼監督に就任した中西太の故障が悪化したこともあり、一塁手、三塁手として56試合に先発出場を果たす。しかし翌年にはジョージ・ウィルソン、ジム・バーマらが入団して出場機会が減り、1964年限りで現役引退。現役時代の通算記録は、実働8年で584試合に出場し、945打数170安打の.180、18本塁打、71打点、3盗塁。1963年には日本シリーズにも出場している。(井上忠行 フレッシュアイペディアより)