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第82回都市対抗野球大会から見たJR九州硬式野球部
今大会から、JR各社のうちJR東日本・JR東日本東北の2チーム間を除いて同一企業とはみなさず、1回戦からの対戦が解禁された。さっそく1回戦でJR東海とJR九州が対戦したほか、今大会に出場した4チームすべてが少なくとも1回、他のJRチームと対戦することとなった。(第82回都市対抗野球大会 フレッシュアイペディアより)
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加藤喜作から見たJR九州硬式野球部
大学卒業後、八幡製鐵所に入社し野球部入部。北九州の実業団早慶戦と呼ばれた門司鉄道局(門鉄)との「製門戦」を戦う。打の大岡虎雄と共に守の中心選手として1934年(昭和9年)、第8回全日本都市対抗野球大会では打率五割と打ちまくり準優勝に貢献、大会最優秀賞(現在の橋戸賞)に選ばれた。戦前の都市対抗野球では最高の遊撃手ともいわれる。1935年(昭和10年)推されて選手兼任監督となる。同年10月6日、まだプロの対戦相手のなかったアメリカ帰りの大日本東京野球倶楽部と対戦し互角の戦いをする。巨人軍は先発・沢村栄治他、田部武雄、水原茂、永沢富士雄らベストオーダーだった。巨人はこの全国巡業で八幡を始め各地の実業団強豪を破ったが、東京鉄道管理局だけに2敗した。このため東京鉄道局の藤本定義監督とエース・前川八郎らをのちに招聘した。1937年(昭和12年)、加藤は第11回都市対抗野球大会で、野武士的な豪快な野球でチーム悲願の初優勝をもたらした。 (加藤喜作 フレッシュアイペディアより)
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