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歴史地震から見たアイヌ
江戸時代以降は町人らの記録も見受けられるようになり全国各地の豊富な被害記録が残されている。しかし、依然、巨大地震の数が多いと考えられる北海道における記録は乏しい。これは、先住民のアイヌが文字を持たなかったため、記録は口伝に頼るほかなかったことによる。また、文字を持っていた和人も江戸時代、北海道の僻地までは住んでおらず、またアイヌと和人の両者は、敵対的な関係であった時代も長かったため、情報が和人の元に集まらなかったことも影響していると思われる。この時代には、慰霊のため、地震の被害者を供養した寺社などの施設がいくつも建てられ、今に残っているものも少なくない。(歴史地震 フレッシュアイペディアより)
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北海道から見たアイヌ
この島の先住民であるアイヌの言葉(アイヌ語)では、「」(、「人間の住む土地」の意)または「」(、「陸地の国土」)と呼ばれる。日本人(和人)は古代には渡嶋(わたりのしま)、近代に至るまでアイヌを蝦夷(えぞ)、その土地を蝦夷地(えぞち)もしくは北州、十州島などと呼んでいたが、明治政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討し、蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書を提出、「北加伊(きたかい)道」「海北道」「海東道」「日高見(ひたかみ)道」「東北道」「千島道」の6案を提示した。結局「北加伊道」を基本として採用し、海北道との折衷案として、また、律令制時代の五畿七道の東海道、南海道、西海道の呼称に倣う形として「北海道」と命名された。なお、松浦は建白書において「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明しているが、言語学者の金田一京助は、当時のそのような事実を示す証拠は見つかっていないと唱えている。(北海道 フレッシュアイペディアより)
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ハプログループD (Y染色体)から見たアイヌ
アイヌにおいては「D1b」が16人に14人の割合に当たる87.5%の高頻度で見られた。アイヌに見られるD1bの内訳はD1b*(81.25%)、D1b1a(6.25%)である。(ハプログループD (Y染色体) フレッシュアイペディアより)