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宇田東植から見たHonda硬式野球部
拓殖大学第一高校では2年次の1964年、夏の甲子園東京都予選3回戦でノーヒットノーランを達成。高校卒業後は中央大学へ進学し、東都大学リーグで通算35試合に登板。9勝3敗を挙げる。大学同期には杉田久雄・石渡茂がいた。大学卒業後後は本田技研を経て、1971年のドラフト4位指名で東映フライヤーズに入団。デビュー当初から主に敗戦処理が中心だったが、イースタン・リーグでは1972年に最優秀防御率のタイトルを獲得。には新山隆史コーチとマンツーマンで腰の回転を研究。これまでアンダースローでありながら腰の回り方がオーバースローに近いものであったが、アンダースローに合った腰の回転に矯正。先発投手として39試合に登板し、規定投球回もクリア。防御率3.47・9勝3敗の成績を残し、リーグ投手ベストテンの7位に入った。1981年の日本シリーズでは、第4戦で4番手に登板している。1月、榊原良行との交換トレードで阪神タイガースに移籍。中継ぎとして29試合に登板したが、1年限りで退団。、韓国プロ野球(KBO)のヘテ・タイガースに移籍。その年は30試合登板、7勝7敗3セーブを挙げて韓国シリーズ優勝に貢献。に現役引退。(宇田東植 フレッシュアイペディアより)
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第87回都市対抗野球大会から見たHonda硬式野球部
予選では、有力チームがおおむね順当に勝ち上がったが、前年まで12年連続で出場していたHonda(狭山市)は予選で敗退した。また、門真市・パナソニックは、日本生命(大阪市)以来史上2チーム目となる50回目(前身の「松下電器野球部」時代も含む)の本戦出場を勝ち取った。東北地区では、活動66年目の山形市・きらやか銀行が第1代表を獲得し、初の本戦出場を決めた。山形県勢の本選出場は1950年大会の山形ハッピーミシン以来66年ぶり。(第87回都市対抗野球大会 フレッシュアイペディアより)