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リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵)から見た古代ローマ
バーリントンは古代ローマ遺跡を詳細に検証したり、あるいは詳細な図面を描くことはせずに、古典的伝統の通訳としてのパッラーディオとスカモッツィ (Vincenzo Scamozzi、1548年-1616年、ヴェネツィアの建築家でパッラーディオの後継者) に頼っていた。彼の発想の別の源泉は、収集した図面や、パッラーディオ自身が描いた図面であった。それらの図面はイニゴー・ジョーンズ (Inigo Jones、1573年-1652年、イングランドの建築家) とイニゴーの弟子のジョン・ウェッブ (John Webb、1611年-1672年) (英語版) が所有していたもので、1727年 (一般的には1736年と言われている。) にウィリアム・ケント (William Kent、1685年-1748年、イギリスの建築家) により、ケントとバーリントンによる「Some Designs of Mr Inigo Jones... with Some Additional Designs」(イニゴー・ジョーンズ氏のデザインといくつかの追加デザイン) として出版された。パラディオ様式建築、あるいはネオパラディオ様式建築におけるウェッブの重要な役割は20世紀まで理解されなかった。バーリントンが所有していたパッラーディオの図面には、ウィトルウィウス (Marcus Vitruvius Pollio、紀元前70年頃の共和政ローマ期の建築家) 以降の古代ローマ建築物復興のためのものが数多く含まれており、彼はそれらを出版する予定であった。一方1723年、バーリントンは図面の中の宮殿の外観を、旧バーリントン通り (Old Burlington Street) にあるジョージ・ウェイド将軍 (George Wade、1673年-1748年、イギリス海軍将校) のロンドン宅に採用し、それは1725年発行のコーレン・キャンベル (Colen Campbell、1676年-1729年、スコットランドの建築家) の「ウィトルウィウス・ブリタニクス」(Vitruvius Britannicusiii) に描かれた。(リチャード・ボイル (第3代バーリントン伯爵) フレッシュアイペディアより)
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西ローマ帝国から見た古代ローマ
西方正帝の廃止は西ローマ帝国の滅亡ではない。西方正帝の地位が廃止されたとはいっても正帝以外の西ローマ帝国の各種公職や政府機関はその後も西ローマ帝国に健在であったし、オドアケルやオドアケルの後にイタリアの統治権を認められた東ゴート王らにしても、ローマ帝国にとっては皇帝からローマ帝国領イタリアの統治を委任された西ローマ帝国における臣下の一人に過ぎなかったのである。彼らは西ローマ帝国での地位と利益を確保するために西方正帝を廃して帝国の政治に参加するようになったのであって、彼らに西ローマ帝国を滅ぼした認識などなく、むしろ自らを古代ローマ帝国と一体のものと考え古代ローマの生活様式を保存しようとさえした。これはイタリア本土に限った話ではなく、西欧において読み書きのできる人々は、西方正帝が消滅して以降の何世紀もの間、自らを単に「ローマ人」と呼び続けており、自分たちが単一不可分にして普遍的なるローマ帝国の国民「諸民族に君臨するローマ人」であるとの認識を共有していたのである。20世紀以降の歴史学においては、アンリ・ピレンヌ、ルシアン・マセット、フランソワ・マサイといった歴史家による「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」とする見解が支持されるようになっている。また、古代ローマにおける主権者が皇帝ではなくSPQR(元老院とローマ市民)であるとされていたことから、SPQRが存在する限りにおいて古代ローマが健在であったとの説明がされることもある。(西ローマ帝国 フレッシュアイペディアより)
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塔から見た古代ローマ
古代ローマがイタリア中部で建国され、ローマ人はイタリア南部のサムニウム人、シチリア(マグナ・グラエキア)のギリシア人、イタリア中部のエトルリア人、イタリア北部(ガリア・キサルピナ)のガリア人などの土地を併合し領土を拡大していった。その過程で得たエトルリアやギリシアの高度な建築技術も取り入れて古代ローマの建築技術は発展していった。また第二次ポエニ戦争ではローマの領土深くまでカルタゴ軍に蹂躙され、内乱の一世紀には内戦で国土が荒廃した。この時期、都市は自己防衛のため城壁で囲まれた城郭都市となるところもあった。またローマ軍団もその駐屯地を防塁で囲っていた。城壁や防塁の角や出入り口(城門)には、一時的であれば櫓が、恒久的な使用を見込めるものであれば塔が配置された。この時期の首都ローマは全周11kmのセルウィウス城壁により守られていた。また、戦場では移動式の木製攻城塔が使われることもあった。(塔 フレッシュアイペディアより)