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佐野浅夫から見た中国地方
戦時下の1943年、18歳で入団した劇団苦楽座では最年少で皆に可愛がられた。1945年、苦楽座は中国地方を慰問する移動演劇桜隊に改称。佐野は同年3月、本土決戦特攻隊員になり劇団を離れた。丸山定夫・園井恵子・仲みどりら劇団員は8月6日広島で被爆。佐野は軍隊を抜け出し20日頃東京帝国大学付属病院に仲を見舞った。仲間の消息を聞こうとしたが、仲はベッドに寝たきりで何も聞けず病室を後にした。「これまでは自分だけが生き残ったことが後ろめたかった。しかし、仲間を知る人がいなくなった今こそ」と62年間の沈黙を破り2007年8月6日、東京都目黒区の五百羅漢寺で仲間への思いを初めて語り追悼した(読売新聞、2007年8月6日や東京新聞・毎日新聞でも戦争体験から反戦平和を述べている)。(佐野浅夫 フレッシュアイペディアより)
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佐野浅夫から見た広島市への原子爆弾投下
日本大学芸術学部在学中の1943年、劇団苦楽座に入団。1945年3月本土決戦に備える特攻隊に応召。苦楽座は巡業中の広島市で原爆投下により壊滅した。戦後、劇団民藝の結成に参加し、多くの舞台に出演するが、1971年に民藝内部で対立が起こり、下條正巳・鈴木瑞穂・佐々木すみ江らと共に退団する。(佐野浅夫 フレッシュアイペディアより)
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