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瀬降り物語から見た倉本聰
中島貞夫が1964年に『くノ一忍法』で監督デビューし、同年二本目の『くノ一化粧』を撮った後、岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)が、中島を本意でない作品でデビューさせたことを気にして「何か一本だけやりたいものを撮らせてやる」というので、本企画を提出した。中島の千葉の実家は醸造関係の仕事を営んでおり、戦前子供のころ、毎年冬になると箕直しをする同じ山窩が家に来ていたのを覚えていて、戦後も三角寛の小説を読み山窩に興味を持っていた。1964年当時は高度経済成長期でもあり、各地で自然破壊が問題となっていた時期で、そうした時代背景から、人間と自然の関係を今一度見つめ直してみたいというテーマがあった。この頃は三角がまだ健在で三角と何度も話し、三角が山窩を撮ったフィルムを見せてもらったりした。しかし三角の小説に出てくるような猟奇的な部分は映画でやるには難しいと考え、そこは薄めて倉本聰と共同で脚本を書き、少年と少女の淡い恋の話を中心に、なぜサンカがいなくなったのかといった内容でシナリオを書き「瀬降りの魔女」(後年『キネマ旬報』でシナリオのみ掲載されたときは『サンカ』というタイトルに改題)というタイトルで岡田に提出し了承された。 (瀬降り物語 フレッシュアイペディアより)
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