137件中 61 - 70件表示
  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見たピーマン

    北の湖が観衆から「憎らしい」「ふてぶてしい」などと言われるようになった主な理由は、倒した相手が起き上がる際、北の湖が相手に一切手を貸さず、相手に背を向けてさっさと勝ち名乗りを受けてしまう態度が“傲慢”と見なされていたためであるという。しかし、この行動の理由について、北の湖本人は「相手に失礼。同情をかけられたようでかわいそうでしょう」、「自分が負けた時に相手から手を貸されたら屈辱だと思うから、自分も相手に手を貸すことはしない」と明確に説明していた。そうした彼の人柄をよく知る角界の関係者たちの間では誠実な力士として高い評価を受けていたものの、一般の観衆からは悪役のような扱いを受けることが多く、1960年代に子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、子供が嫌いな物として「江川・ピーマン・北の湖」という呼び方が揶揄的になされた。また、北の湖と同時代には、絶大な人気を誇った美男力士 (貴ノ花・千代の富士・蔵間など) が多く、そういった人気者を容赦なく倒す北の湖は必然的に「敵役」と見なされる運命にあった。それでも逆に、真摯に土俵を務める北の湖の姿や圧倒的勝負強さに魅了される好角家も少なくなかった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見たスポーツ庁

    2015年12月22日、両国国技館にて北の湖の日本相撲協会葬が執り行われ、鈴木大地スポーツ庁長官など各界からの会葬者が北の湖の霊に哀悼の誠を捧げた。墓所は神奈川県川崎市の川崎大師(平間寺)に建立された。2017年10月1日、墓所の川崎大師の境内に建てられた自身の銅像の除幕式が行われた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た年寄名跡

    1985年1月場所、こけら落としとなった両国国技館の土俵に現役で臨んだが、ケガが完治せずに土俵に上がれる身体ではなかった。それでも、国技館建設に携わって開館を心待ちにしていた春日野から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」との言葉を受けて強行出場。国技館での北の湖は、初日の旭富士、2日目の多賀竜と相次いで全く良い所なく敗れて2連敗。所有していた年寄名跡・清見潟を他の力士に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した(当時は優勝32回の大鵬しか一代年寄の例がなかった)。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た養子

    入幕してからしばらく期待が今一つ高くなかった北の湖が強くなったのは大関昇進後である。1974年1月場所では14勝1敗で初優勝を果たして大関に昇進すると5月場所で13勝2敗で2回目の優勝、さらに7月場所でも13勝2敗の成績で優勝決定戦まで進んで敗れたものの、場所後に21歳2ヶ月の若さで横綱へ昇進した。昇進伝達式での口上は、「本日はありがとうございます。横綱の地位を汚さぬよう努力いたします。今後とも、ご指導ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願いいたします」。7月場所千秋楽本割の輪島戦では、左四つ、北の湖が両廻しを引いて寄り立てたが、左下手を引いた輪島は相手の出足を利用するような左下手投げで北の湖を転がした。決定戦では左四つ、輪島は十分の左下手を取り、北の湖に右上手を許したものの、みぎおっつけからのもろ差しで寄り、北の湖が左を巻き替えて逆襲の寄りに出ると、再び土俵際で豪快な左下手投げを決めた。報知新聞では全勝がただ1人になった7月場所6日目には「北の湖当確だ6連勝」と1面で報じ、14日目になると横綱昇進が既成事実であるかのように報じ、1面原稿は「裸の怪童」というテーマで貯金・恋人・持ち物・趣味・酒という項目別に人物像を紹介するなど、まるで昇進伝達式後の記事のような構成になっていた。因みに千秋楽明けの1974年7月22日には報知新聞の休刊日であり、当時は現在のような休刊日特別版もないため、後に「同じ技で同じように負ける。悔しいなんてもんじゃなかった」と千秋楽本割と優勝決定戦の連敗を語った様子は、少なくとも報知新聞の上では休刊日の都合上でなかったことにされていた。新三役から横綱昇進までわずか所要6場所であり、この時期について本人は「あの1年って、なんだったんだろうな」と後年まで目まぐるしく思っている。横綱昇進が決まると、三保ヶ関はかつて自分のために後援会が用意しながら使うことがなかった三ツ揃いの化粧まわしを提供し、北の湖はこれを使い続けた。横綱土俵入りは雲龍型を選び、その稽古は春日野の指導で行われた。自身の弟子ではないにも関わらず理事長自ら指導した理由は、春日野部屋と三保ヶ関部屋は同じ出羽海一門で、春日野は以前から北の湖をかわいがっており、実子がいないために養子に迎えたいと思っていた程であることも影響している。土俵入りは指導を務めた春日野の影響を受けて大抵50秒台で終わるようなテンポの速いものに仕上がった。横綱昇進直後の仙台巡業での土俵入りを見た大鵬は「いいセンいっているね。スケールを大きくするともっといい」と評し、ライバルの輪島も「腹が出ているから、オレより似合うよ」と褒めた。入門当初は三役に上がれば上出来と思っており、横綱になるなどとは思っていなかった、と本人は横綱昇進直後のインタビューで明かしている。昇進年齢から、前途を限りなく嘱望するものと、早期に引退することを予想するものの2つに分かれた。早期引退を予想する側の見解は、稽古が好きでなく、太り過ぎて動きが鈍く、ここ一番に弱い、というものであった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た貧血

    2015年11月場所も初日の挨拶を欠席。11月18日、17日に行われた場所10日目の取組で白鵬が栃煌山に猫だましを行ったことに対して苦言を呈したが、これが生前最後となる北の湖のメディア上での発言となった。その11月場所最中の11月19日夜に、持病の貧血の症状を示す。翌11月20日朝に救急車で福岡市の済生会福岡総合病院に搬送されて緊急入院し、点滴治療などを受けていたが、直腸癌による多臓器不全のため同日午後6時55分に死去した。。現職の日本相撲協会理事長の死去は、1968年12月の時津風理事長 (元第35代横綱・双葉山)に次いで2人目であり、本場所中での理事長の死去は大相撲史上初であった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た大阪市

    自らが育った三保ヶ関部屋が大坂相撲の系統を引く部屋であったこともあり、北の湖部屋の師匠になった後には初代から3代目までの年寄・三保ヶ関の墓所がある成恩寺(大阪市生野区)を毎年三月の大阪場所の際には長年宿舎として使用していたほか、成恩寺の相撲力士墓への供養及び墓参を続けていた。没後、成恩寺には『北の湖敏満慰霊碑』が建立され、2016年3月に除幕式が執り行われた。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た日本放送協会

    1953年 (昭和28年) 5月16日、有珠郡の農業協同組合職員の家で8人きょうだいの7番目、四男として誕生した。奇しくもこの日はNHKによって初めてテレビの大相撲中継が行われた日であった。当時は同じ北海道松前郡出身で第41代横綱だった千代の山の全盛期であった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た報知新聞社

    現役引退後にはNHKの大相撲中継の解説を度々務め、また報知新聞社専属評論家を務めていたこともある。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た優勝決定戦 (相撲)

    入幕してからしばらく期待が今一つ高くなかった北の湖が強くなったのは大関昇進後である。1974年1月場所では14勝1敗で初優勝を果たして大関に昇進すると5月場所で13勝2敗で2回目の優勝、さらに7月場所でも13勝2敗の成績で優勝決定戦まで進んで敗れたものの、場所後に21歳2ヶ月の若さで横綱へ昇進した。昇進伝達式での口上は、「本日はありがとうございます。横綱の地位を汚さぬよう努力いたします。今後とも、ご指導ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願いいたします」。7月場所千秋楽本割の輪島戦では、左四つ、北の湖が両廻しを引いて寄り立てたが、左下手を引いた輪島は相手の出足を利用するような左下手投げで北の湖を転がした。決定戦では左四つ、輪島は十分の左下手を取り、北の湖に右上手を許したものの、みぎおっつけからのもろ差しで寄り、北の湖が左を巻き替えて逆襲の寄りに出ると、再び土俵際で豪快な左下手投げを決めた。報知新聞では全勝がただ1人になった7月場所6日目には「北の湖当確だ6連勝」と1面で報じ、14日目になると横綱昇進が既成事実であるかのように報じ、1面原稿は「裸の怪童」というテーマで貯金・恋人・持ち物・趣味・酒という項目別に人物像を紹介するなど、まるで昇進伝達式後の記事のような構成になっていた。因みに千秋楽明けの1974年7月22日には報知新聞の休刊日であり、当時は現在のような休刊日特別版もないため、後に「同じ技で同じように負ける。悔しいなんてもんじゃなかった」と千秋楽本割と優勝決定戦の連敗を語った様子は、少なくとも報知新聞の上では休刊日の都合上でなかったことにされていた。新三役から横綱昇進までわずか所要6場所であり、この時期について本人は「あの1年って、なんだったんだろうな」と後年まで目まぐるしく思っている。横綱昇進が決まると、三保ヶ関はかつて自分のために後援会が用意しながら使うことがなかった三ツ揃いの化粧まわしを提供し、北の湖はこれを使い続けた。横綱土俵入りは雲龍型を選び、その稽古は春日野の指導で行われた。自身の弟子ではないにも関わらず理事長自ら指導した理由は、春日野部屋と三保ヶ関部屋は同じ出羽海一門で、春日野は以前から北の湖をかわいがっており、実子がいないために養子に迎えたいと思っていた程であることも影響している。土俵入りは指導を務めた春日野の影響を受けて大抵50秒台で終わるようなテンポの速いものに仕上がった。横綱昇進直後の仙台巡業での土俵入りを見た大鵬は「いいセンいっているね。スケールを大きくするともっといい」と評し、ライバルの輪島も「腹が出ているから、オレより似合うよ」と褒めた。入門当初は三役に上がれば上出来と思っており、横綱になるなどとは思っていなかった、と本人は横綱昇進直後のインタビューで明かしている。昇進年齢から、前途を限りなく嘱望するものと、早期に引退することを予想するものの2つに分かれた。早期引退を予想する側の見解は、稽古が好きでなく、太り過ぎて動きが鈍く、ここ一番に弱い、というものであった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

  • 北の湖敏満

    北の湖敏満から見た大相撲中継

    1953年 (昭和28年) 5月16日、有珠郡の農業協同組合職員の家で8人きょうだいの7番目、四男として誕生した。奇しくもこの日はNHKによって初めてテレビの大相撲中継が行われた日であった。当時は同じ北海道松前郡出身で第41代横綱だった千代の山の全盛期であった。北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)

137件中 61 - 70件表示