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佐賀女性7人連続殺人事件から見た名張毒ぶどう酒事件
日本では検察側の求刑が死刑に対して、一審判決が無罪となった例は過去には1961年に三重県名張市で起こった名張毒ぶどう酒事件がある。これは、最高裁の統計が残る1958年からだと名張事件から41年ぶりであり、戦後5件目である(実際は1974年の豊橋事件、1983年の土田・日石・ピース缶爆弾事件で一審段階で無罪が言い渡されている)。ただし名張事件では、一審の津地方裁判所では無罪になったものの(1964年)、上訴審では死刑判決となり最高裁で確定した(1972年)。これに対しては再審請求が繰り返し行なわれている。(佐賀女性7人連続殺人事件 フレッシュアイペディアより)
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団藤重光から見た名張毒ぶどう酒事件
団藤は死刑廃止論者として知られているが、従来は死刑に賛成の立場であった。しかし、ある事件(この事件を名張毒ぶどう酒事件とする見解もあるが、同事件は就任前の1972年の最高裁判決であるため誤りである。実際は1976年の波崎事件の最高裁判決である。)で陪席として死刑判決を出した際に、傍聴席から「人殺し」とヤジが飛んだ。この事件では、団藤は冤罪ではないかと一抹の不安を持っていたうえに、被告人も否認していた事件であった。これを契機として、被告人が有罪であるとの絶対的な自信がなかったこと、そして冤罪の可能性がある被告人に対して死刑判決を出したことへの後悔と実際に傍聴人から非難されたことなどから、死刑に対する疑念が出てきたとのことである。(団藤重光 フレッシュアイペディアより)