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天草諸島から見た普請
豊臣秀吉が九州平定を成し遂げると、豊臣政権の下で天草五人衆は佐々成政の与力とされたが、肥後国人一揆により成政が失脚、代わって肥後南半国の領主としてキリシタン大名の小西行長が下向するとその与力とされた。しかし天正17年(1589年)、五人衆は行長の宇土城普請の命に背いて反乱に及んだ末に敗れて降伏、逃走した志岐氏を除く4氏が行長の家臣に組み入れられた。その後、行長は志岐にキリシタンの家臣日比屋了荷(受洗名はヴィセンテ。ヴィンセンゾとも)を置いた。天草のキリシタンは行長の庇護を受けることになったのである。また、乱の翌年には上津浦氏もキリスト教に受洗している。(天草諸島 フレッシュアイペディアより)
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天草諸島から見た讃岐国
乱後、山崎家治が富岡藩4万2千石で入封し、富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発などに当たった。寛永18年(1641年)、家治はその功績により讃岐丸亀藩5万3千石に加増移封され、天草は天領となった。代官鈴木重成は天草の復興に努める一方、再検地の結果に基づき石高を実収に見合うよう半減すべきと幕府に訴えた。しかし、再三の訴えも聞き入れられなかったため、重成は上表文を残して自刃したと伝承されてきたがこれは近代になってから作られた話で、公文には全く記載されておらず、慰霊碑にも病死と記録があり石高も重成存命中に半減されているが、当時の一般的な税率は4公6民であり変わらず島民は重税に苦しんだ。また、キリシタン弾圧のための寺檀制度の確立と一向一揆を恐れて浄土真宗寺院門徒の監視の為に曹洞宗の僧侶であった重成の兄により曹洞宗寺院が多数建立し、逆に一向一揆を警戒する歴代代官は浄土真宗寺院の建立は認めず寺地を強制的に移転させたり、門徒を強制的に曹洞宗に改宗させて弾圧した。(天草諸島 フレッシュアイペディアより)