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正倉院から見た奈良公園
戦前の大規模な一般公開は、1940年(昭和15年)11月の皇紀2600年記念として東京の帝室博物館で開催された正倉院御物特別展である(約140点)。染織品の展覧は、1924年(大正13年)4月に奈良帝室博物館で大規模な展示があり、さらに1932年(昭和7年)にも開催された。戦後、1946年(昭和21年)に近隣の奈良公園内にある奈良国立博物館で「正倉院御物特別拝観」として開催され、翌年以降、秋の2か月の曝涼にあわせて開催されるようになった。最初は、「正倉院御物展」「正倉院展覧会」といった表記ゆれがあり、現在の「正倉院展」の名称が定着するのは1952年(昭和27年)頃からのようだ。正倉院展は奈良で開催されなかった年もあるが、2008年(平成20年)に第60回を迎えた。(正倉院 フレッシュアイペディアより)
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セルゲイ・プロコフィエフから見た奈良公園
1918年(27歳)「古典交響曲」の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。教育人民委員アナトリー・ルナチャルスキー(1875-1933)は、「君は音楽の革命家だ。我々は生活の革命家なのだ。手を取り合うのは当然ではないか。それでも行くというのならば邪魔はしないが...」と説得に努めたが、彼の亡命の意志は固かった。5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日、東京に到着。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、横浜周辺に滞在。12 - 18日、京都に滞在し、琵琶湖疏水、祇園などを散策。13日には大阪を訪れている。19〜28日、奈良に滞在し、奈良ホテルに宿泊。奈良公園周辺を散策している。この奈良滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった「白鍵四重奏曲」の構想を練っている。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19〜21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日には東京で9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日、離日。このプロコフィエフの日本滞在は、ヨーロッパの大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄や徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。プロコフィエフはサンフランシスコに上陸し、9月にはニューヨークへ到着した。(セルゲイ・プロコフィエフ フレッシュアイペディアより)
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平成25年台風第18号から見た奈良公園
奈良市では近鉄奈良駅から奈良公園へのアクセスであり奈良県庁前でもある国道369号の登大路地下道(歩行者専用道路)が冠水した他。(平成25年台風第18号 フレッシュアイペディアより)