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  • 寺原隼人

    寺原隼人から見た埼玉西武ライオンズ

    4月16日に一軍選手登録されて同日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で先発してプロ初登板を果たした。3回に井出竜也に先制ソロ本塁打を浴び、6回に逆転したその裏に捕まり5回0/3を投げ4失点のデビューだった。4月28日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で本拠地・福岡ドーム初先発を果たすと、4回までパーフェクトの6イニング3安打無失点、7奪三振の好投でプロ初勝利を挙げた。5月12日の対千葉ロッテマリーンズ戦では6番手として9回7点ビハインドから初のリリーフ登板だったが1イニングを3人で抑えた。5月15日には台北市立天母棒球場での海外公式戦でも4番手で2イニングを無失点に抑えた。5月29日にはプロ入り前から比較された西武ライオンズ・松坂大輔との初対決も制して3勝目を挙げた。しかし続く6月6日の対オリックス戦で2回1/3の最短KOを喫し、6月11日の試合前練習で左太もも裏に違和感を覚えて6月13日に登録抹消、7月30日に再昇格すると、負ければ借金突入という同日の対オリックス戦で試合を作ってチームの連敗を止めた。これまでは城島健司とバッテリーを組んでいたが同試合では田口昌徳が先発マスクを被った。8月2日の投球練習中に右内転筋を傷めて8月4日に抹消されたが、9月27日に再昇格して以降はリリーフとなった。9月29日の対西武戦では7回同点の場面から4イニングを無失点に抑えて初の救援勝利・サヨナラ勝利で5勝目を挙げた。10月2日の対オリックス戦では4回2点リード一死一塁から3イニングを無失点で切り抜けて6勝目を挙げ、これはドラフト制導入後の1984年南海ホークス加藤伸一がマークした高卒新人最多勝利を塗り替えて球団新記録となった。10月6日の対千葉ロッテ戦・秋山幸二の引退試合で7回5点リードから登板して3イニングを1失点にまとめてプロ初セーブを記録した。1年目は先発7試合で3勝2敗、防御率4.28、QS率57.1パーセント、中継ぎ7試合では2勝0敗1S、防御率2.04、WHIP1.13だった。10月9日のメディカルチェックで右肩炎症が発覚して秋季キャンプの11月2日まで投球を控え、11月10日のパ・リーグオールスター東西対抗で西軍の先発として実戦復帰した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た開幕投手

    ''、3月28日の対阪神戦で自身初の開幕投手を務め、3回まで完璧に抑えていたが右手がしびれるアクシデントで逆転タイムリーを許して4イニングで降板して敗戦投手となった。続く4月4日の対広島戦でプロ初先発マスクの同級生・齋藤俊雄とのコンビで1勝したものの、他の試合でも足が攣るなどして4月は先発4試合で1勝3敗、防御率4.29だった。抑えに予定していたトラビス・ヒューズが不調だったことから、大矢明彦監督は寺原の了承を得た上で4月27日の対広島戦で抑えとして起用、セ・リーグからは初となる6年ぶりのセーブを挙げ、5月中旬にはストッパーに固定する方針となった。6月17日には自身と真田裕貴、秦裕二の3人の2001年ドラフト1位が一軍に揃う珍事が起きた。なお真田と秦は寺原がドラフトで競合された際にくじを外した巨人と横浜がそれぞれ獲得したいわゆる外れ1位である。7月6日の対阪神戦で林威助の打球を受け右足すねを打撲して3度目のセーブ失敗となったが、大事には至らず7月9日以降は5連続セーブを挙げた。7月14日には監督推薦によりオールスターゲームに初選出され、8月1日第2戦(横浜スタジアム)で7回から登板して初出場を果たし、1イニングを無失点に抑えた。9月23日の対阪神戦ではプロ初ホールドを挙げた。チームが年間100敗ペースの弱さで登板機会が少なく、10月2日の対中日戦では中8日での登板で李炳圭に勝ち越しスリーランを打たれてチームは13連敗して90敗目を喫した。最終的にリリーフ登板37試合45回2/3で防御率2.76、WHIP0.88、22セーブ1ホールド、2勝6敗だった。セーブ成功率は84.6パーセントで4度のセーブ失敗はいずれも逆転負けした。同点からの登板5試合は2勝2敗1ホールドだった。シーズン終了後の10月中旬時点で来季は先発に戻る事が決まった。オフの契約更改交渉では急な配置転換による「スクランブル手当て」として2,000万円増の年俸8,000万円(金額は推定)で更改した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た大阪市

    第83回全国高等学校野球選手権大会は8月11日の四日市工との1回戦では先発して8回を1失点に抑え、ニューヨーク・メッツスカウトのスピードガンで初球に153km/h、22球目に155km/hを計測したがテレビ中継画面の表示は甲子園タイ記録の151km/hだった。8月16日の岡山県立玉野光南高等学校との2回戦では前夜に発熱していたものの同点の5回裏から登板し、2イニング目の6回にアトランタ・ブレーブススカウトのスピードガンで98mph(約157.7km/h)を計測、テレビ中継では154km/hと表示され当時の甲子園記録を塗り替え、6イニングを3失点にまとめて延長戦で勝利した。8月17日に大阪市内の病院で点滴を受けブルペン待機となったが、チームは20安打15得点の完封リレーで3回戦を突破した。8月19日に行われた準々決勝の対横浜高校戦では最速150km/hは出たものの、2回以降の直球の約8割が130km/h台と苦しみ、同点で迎えた9回に3四球で満塁とした所で決勝打を浴びて敗れ、ベスト8に終わった。翌日8月20日に大阪市内の病院で検査の結果、右足内転筋の肉離れと診断され、AAAアジア野球選手権大会日本高校選抜を辞退した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た日本野球機構

    '、オープン戦は好調ではなかったが東浜巨、大場翔太を押し退けて4月2日の開幕第5戦からローテーション入りし、同日の対日本ハム戦で通算1000投球回を達成した。プロ入り後通算6敗(全て先発)で迎えた4月16日の対楽天戦で7回を1失点に抑えて工藤公康、杉内俊哉に続くNPB史上3人目の13球団からの勝利'を達成した。4月30日の対オリックス戦で4回途中KOとなり、5月1日に二軍降格となった。ウエスタン・リーグでも被弾し右膝の違和感が消えず、5月12日に福岡市内の病院で精密検査を受け、5月27日に右膝軟骨損傷による内視鏡下デブリードマン手術を受けた。100パーセント完治する手術ではなく、翌年以降も毎週膝に溜まる水を抜き、ヒアルロン酸の注射が必須となった。同年はわずか5試合にとどまり1勝4敗に終わりながらもQS率は60パーセントだった。敗戦した4試合はいずれも1回、2回に先制点を奪われて本塁打も浴び、味方の援護も2点以下だった。5試合で被本塁打8と、9イニングあたり2.60本(前年までの8年間は1.00未満)と数字からも異変が起きていた。なお全5試合の捕手は同年より移籍加入した鶴岡慎也だった。オフの12月3日の契約更改交渉で減額制限を越える47パーセントダウンの年俸4,500万で更改した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た横浜市

    '、かつてのコーチ・尾花高夫が自軍の監督となり、2月6日のキャンプ中に右太腿炎症で別メニューとなった。3月9日に登録名を「寺原 早人'」に変更することが発表された。開幕は一軍で迎えて開幕第2戦からローテーション入りした。4月8日の対中日戦ではエドワード・バルデスからプロ初の長打となる2点タイムリー二塁打を放つなど活躍して同年初勝利を挙げた。4月20日には日南・ダイエーでの同僚・井手正太郎が横浜に移籍して再びチームメイトとなった。5月4日の試合中に右肘の違和感を訴えて降板し、5月5日に横浜市内の病院で検査の結果、右肘付近に筋肉の炎症が見られたため同日出場選手登録を抹消された。ここまで先発6試合で3勝2敗、防御率2.92、QS率57.1パーセントだった。約2ヶ月と復帰に期間を要して6月22日に一軍昇格したが、その間に離脱した牛田成樹の代わりにリリーフ起用される事が決まった。しかし同日の対中日戦2点ビハインドからの登板で二死から連続本塁打を浴びて、わずか1試合の登板で6月25日に二軍降格となった。9月3日に再昇格して12試合に登板したが、内6試合で失点するなど結果は残せなかった。中継ぎ13試合14イニングで防御率5.79、WHIP1.86だった。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た中日ドラゴンズ

    11月19日に行われた2001年のドラフト会議で、4球団(ダイエー・中日・巨人・横浜)から1位指名を受けるが抽選の末、3番目に引いた王貞治が率いるダイエーが交渉権を獲得した。なお、これまで王が4度引いたドラフトのくじで初めて交渉権を獲得した選手となった。11月20日の指名挨拶には王と中内正オーナーが訪れ、11月27日にダイエーへの入団を表明した。12月4日に井手・神内らと共に入団会見を行い、背番号は20に決まった。12月5日のメディカルチェックでは右肩の可動域の狭さを指摘された。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た岡山県立玉野光南高等学校

    第83回全国高等学校野球選手権大会は8月11日の四日市工との1回戦では先発して8回を1失点に抑え、ニューヨーク・メッツスカウトのスピードガンで初球に153km/h、22球目に155km/hを計測したがテレビ中継画面の表示は甲子園タイ記録の151km/hだった。8月16日の岡山県立玉野光南高等学校との2回戦では前夜に発熱していたものの同点の5回裏から登板し、2イニング目の6回にアトランタ・ブレーブススカウトのスピードガンで98mph(約157.7km/h)を計測、テレビ中継では154km/hと表示され当時の甲子園記録を塗り替え、6イニングを3失点にまとめて延長戦で勝利した。8月17日に大阪市内の病院で点滴を受けブルペン待機となったが、チームは20安打15得点の完封リレーで3回戦を突破した。8月19日に行われた準々決勝の対横浜高校戦では最速150km/hは出たものの、2回以降の直球の約8割が130km/h台と苦しみ、同点で迎えた9回に3四球で満塁とした所で決勝打を浴びて敗れ、ベスト8に終わった。翌日8月20日に大阪市内の病院で検査の結果、右足内転筋の肉離れと診断され、AAAアジア野球選手権大会日本高校選抜を辞退した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た横浜中学校・高等学校

    第83回全国高等学校野球選手権大会は8月11日の四日市工との1回戦では先発して8回を1失点に抑え、ニューヨーク・メッツスカウトのスピードガンで初球に153km/h、22球目に155km/hを計測したがテレビ中継画面の表示は甲子園タイ記録の151km/hだった。8月16日の岡山県立玉野光南高等学校との2回戦では前夜に発熱していたものの同点の5回裏から登板し、2イニング目の6回にアトランタ・ブレーブススカウトのスピードガンで98mph(約157.7km/h)を計測、テレビ中継では154km/hと表示され当時の甲子園記録を塗り替え、6イニングを3失点にまとめて延長戦で勝利した。8月17日に大阪市内の病院で点滴を受けブルペン待機となったが、チームは20安打15得点の完封リレーで3回戦を突破した。8月19日に行われた準々決勝の対横浜高校戦では最速150km/hは出たものの、2回以降の直球の約8割が130km/h台と苦しみ、同点で迎えた9回に3四球で満塁とした所で決勝打を浴びて敗れ、ベスト8に終わった。翌日8月20日に大阪市内の病院で検査の結果、右足内転筋の肉離れと診断され、AAAアジア野球選手権大会日本高校選抜を辞退した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見たプロ野球ドラフト会議

    台湾で行われた第34回IBAFワールドカップに日本代表として出場した。プロ・アマ合同の同大会で高校生が日本代表として選出されたのは史上初であった。11月7日第1戦の対フィリピン戦では15点リードの5回から2番手で登板して2イニングを無失点4奪三振に抑えた。11月13日に下痢と発熱で体調を崩したが、11月14日第7戦の対オランダ戦では8回3点リードから2番手で登板し、8回はダーク・ファンクルースターの打球が右足首を直撃しながらも無失点で抑え、9回にライリー・レヒトに2点タイムリー打を浴びたが後続を断ってセーブを記録し、チームは予選リーグ全勝で終えた。プロ野球ドラフト会議の為、3位決定戦を前に帰国した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た福岡市

    、開幕から10試合で無傷の先発6連勝を記録したものの、翌日6月16日に福岡市内の病院で右肩関節炎と診断され、6月17日に登録を抹消された。7月11日に再昇格して7月23日の対日本ハム戦で先発したが4回途中でKOされ、2年間の本拠地「福岡ドーム不敗神話」が崩れた。8月1日の対オリックス戦ではチームが29得点を挙げて得点・得点差ともにパ・リーグ新記録を打ち立てたが、自身は8回25点リードから2番手で登板して9回に代打・副島孔太にタイムリー打を浴びて唯一の失点を許した。先発3連敗を喫していたが8月22日の対千葉ロッテ戦では制球に苦しみながらも自己最多となる7勝目を挙げた。8月29日の対千葉ロッテ戦で先発したが1回1/3で4失点と最短KOを更新し、点灯していた2度目の優勝マジックを消滅させた。続く9月7日の対西武戦では9回4点ビハインドの場面から登板した直後に5連打3失点を喫して一死も取れずに降板させられ、翌日9月8日に二軍へ降格した。二軍で結果を出して9月28日の対近鉄戦で登板したがまたも2回途中KOでレギュラーシーズンを終えた。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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