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日本のダムの歴史から見た岐阜県
このように日本各地で盛んに建設された発電用コンクリートダムの中で、日本のダム事業史に特筆されるものとして岐阜県の大井ダム(木曽川)がある。日本有数の大河川である木曽川の本流にダムを建設するこの事業は、福沢諭吉の養子で大同電力社長職に在った福澤桃介により手掛けられた。1921年(大正10年)7月より着工された建設事業は木曽川本流の膨大な洪水などに阻まれ難航、さらに1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で資金調達が滞り事業継続が危ぶまれるなど度重なる困難に直面した。桃介は渡米して大同電力の社債を売り出すことで資金を調達、また女優・マダム貞奴の援助などを得て事業を進めた。アメリカから4名の土木技術者を招聘して工事を進め、半川締切方式の採用、ボーリング調査の導入など日本初の手法を用いて難工事に対処、総事業費1952万円(当時)の巨費と従事者数延べ146万人という莫大な投資を行い31名の殉職者を出して1924年完成した。高さ53.4メートル、総貯水容量2940万立方メートルは完成当時日本最大級のダムであり、ダムに付設された大井発電所(出力4万2900キロワット)は当時愛知県全県の電力需要の半分を賄える電力量に相当した。さらにダムにより恵那峡という新たな観光地も誕生する。桃介は大井ダム完成後、大井ダム上流の木曽川本流に落合ダムを1926年(大正15年)11月に完成させ、木曽川水系の電力開発に道筋を付けた。大井ダムを始めとする発電用ダムの完成により、大都市への長距離送電技術の向上と相まって東京・大阪などへの本格的な電力供給が可能になった。(日本のダムの歴史 フレッシュアイペディアより)
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大同電力から見た岐阜県
設立にあたって立案された大阪送電会社の事業計画によれば、木曽電気興業が水利権出願中の木曽川筋笠置発電所(岐阜県)から最大1万7000kW、錦津発電所(同上)から最大1万8000kWの電力供給を受け、両発電所から大阪・京都へと新設送電線により送電、さらに渇水時の補給用として大阪府下に出力1万kWの火力発電所を建設し、大阪市・京都市および周辺町村へと電力を供給する、という構想であった。これらの第一期計画に続いて、白山水力・矢作水力・久原鉱業が計画する水力発電所から10万kWの供給を受け京阪方面への供給力を増強する、という第二期計画も予定された。(大同電力 フレッシュアイペディアより)
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ヒトツバタゴから見た岐阜県
中国、台湾、朝鮮半島および日本では対馬、岐阜県東濃地方の木曽川周辺、愛知県に隔離分布する珍しい分布形態をとる(但しこれらの地域以外でも植栽の樹木の実の種が野鳥に運ばれて着床して自生している自生の樹木を山林の中で観察することができる)。成木で樹高は20mを超える大型の落葉高木。幹は灰褐色で縦に切れ目が入る。葉は長楕円形で4cm-10cm程度となり、長い葉柄を持ち対生する。花期は5月頃で、新枝の枝先に10cm程度円錐形に集散花序をつける。花冠は深く4裂する。雌雄異株であるが、雌花のみをつける株は存在せず、雄花をつける株と、両性花をつける株がある雄株・両性花異株である。秋に、直径1cm程度の楕円形の果実をつけ、黒く熟す。(ヒトツバタゴ フレッシュアイペディアより)
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中部電力 (1930-1937)から見た岐阜県
1930年(昭和5年)設立。1897年(明治30年)に開業した岡崎の電力会社岡崎電灯株式会社(岡崎電燈、おかざきでんとう)と東邦電力の事業の一部、それに岐阜県に存在した同名の中部電力(旧・多治見電灯所)を統合し、愛知・岐阜・静岡の3県に供給区域を広げた。1937年(昭和12年)に東邦電力と合併して消滅した。(中部電力 (1930-1937) フレッシュアイペディアより)
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