-
広島東洋カープから見た広島電鉄
正力の二リーグ構想が公に出た4月から、4ヶ月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた。四人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と四人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり、三人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島二区選出の衆議院議員・谷川昇と金鯱軍代表の広島県人・山口勲が訪ねてきて、「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と話した。谷川は当時公職追放中で公務からは外されていた。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが、山口に助力を要請され、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った。ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した。(広島東洋カープ フレッシュアイペディアより)
-
注目ワード
キーワード一覧