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  • 1975年の日本ハムファイターズ

    1975年の日本ハムファイターズから見た張本勲張本勲

    ファイターズとして2年目のシーズンを迎え、三原脩球団社長は本格的にチーム改造に着手、大杉勝男を内田順三・小田義人との交換でヤクルトへ、白仁天を東田正義との交換で太平洋クラブへ、大下剛史を上垣内誠・渋谷通との交換で広島へそれぞれ放出。こうして張本勲を除く東映時代の主力打者を一掃した打線は小田が最後まで首位打者を争ったが太平洋の白に5毛差及ばず2位、一方で前年の首位打者張本は.275と振るわなかった。また投手陣は高橋直樹が東尾修、鈴木啓示に次ぐ17勝をマーク、野村収も11勝止まりながら22勝の鈴木と共に最高勝率のタイトルを獲得したがチーム防御率はリーグ最下位。チームは前期・後期ともに4位だったが、総合では南海に勝率で1厘及ばず2年連続の最下位となり、中西は解任。シーズン終了後、張本も高橋一三・富田勝との交換で巨人へ放出となり、新たに大沢啓二を監督に迎え、チームの再構築が始まることになる。1975年の日本ハムファイターズ フレッシュアイペディアより)

  • 王貞治

    王貞治から見た張本勲張本勲

    に契約金1,800万円、年俸144万円、背番号「1」という高卒新人としては破格の条件で巨人に入団。背番号1については、中国語で「王」を「ワン」と発音することから、英語のoneにかけてつけられたという説や、南村侑広の引退によって1が空いていたためという説もある。プロ入りの同期には村山実、板東英二、河村保彦、江藤愼一、田中俊幸、張本勲、足立光宏らがいる。王貞治 フレッシュアイペディアより)

  • 1975年の野球

    1975年の野球から見た張本勲張本勲

    日本ハムの張本勲が川崎球場での対ロッテ5回戦の7回表に1号3ランを放ち、プロ通算400本塁打を達成。1975年の野球 フレッシュアイペディアより)

  • イチロー

    イチローから見た張本勲張本勲

    、打率.358、181安打でシーズンを終え、張本勲の4年連続を抜いて日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成、5年連続・通算5回目となる最多安打も記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)他、リーグ最多敬遠も4年連続となった。イチロー フレッシュアイペディアより)

  • 1971年の野球

    1971年の野球から見た張本勲張本勲

    4月24日 - 東映の張本勲は後楽園球場での対南海二回戦の一回裏に5号本塁打を放ち、プロ通算300号本塁打を達成。1971年の野球 フレッシュアイペディアより)

  • 榎本喜八

    榎本喜八から見た張本勲張本勲

    1961年は主に1番打者や2番打者として出場。9月に24歳9ヵ月で通算1000本安打を達成し、プロ野球史上最年少記録を樹立した。シーズン終盤まで張本勲と首位打者争いを繰り広げ、1番打者でスタメン出場した10月17日の東映戦(シーズン最終戦)では、タイトル争いのため1回に敬遠を受けた。同年シーズンはリーグ2位の打率.331、自己最多の180安打を記録する。榎本喜八 フレッシュアイペディアより)

  • 1977年の野球

    1977年の野球から見た張本勲張本勲

    5月29日 - 巨人の張本勲が甲子園球場での対阪神9回戦の一回表に安打、四回表に安打を放ち、プロ通算4500塁打を達成。1977年の野球 フレッシュアイペディアより)

  • 岩本義行

    岩本義行から見た張本勲張本勲

    1951年8月1日の対大阪タイガース戦(長野上田球場)では、自らの記録を塗り替える史上初の1試合4本塁打を記録、二塁打も放ち1試合18塁打のプロ野球記録を達成。この二塁打も左翼フェンス上部を直撃したといわれている。31本塁打(本塁打王、青田昇と1本差)、打点87、打率2位.351(首位打者、川上哲治.377)、長打率1位、盗塁は10。この年4月22日の国鉄戦から6月6日の巨人戦まで27試合連続ヒットを記録。この記録は1976年に張本勲に抜かれるまでセ・リーグ記録だった。前年とこの年に、二年連続で外野手シーズン最多補殺8という、セ・リーグ記録も残している。岩本義行 フレッシュアイペディアより)

  • 長嶋茂雄

    長嶋茂雄から見た張本勲張本勲

    1975年のシーズンは、球団創設以来初の最下位に終わった。当時巨人の選手だった柴田勲は「長嶋さんが引退して森昌彦さん、黒江透修さんも引退し戦力が落ちたのもあるが、コーチ陣を一新したり、一体どういう野球をしたいのかがわからなかった」、「コーチ陣と上手くいっているように見えなかった」と述べている。この時、長嶋は自身の野球人生は「波乱万丈」だと思ったという(『読売新聞』1999年11月27日付)。そのため1975年のオフには「グリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」を標榜し、勝つ野球へのシフトチェンジを行った。日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲を高橋一三、富田勝との交換で獲得。さらにトレードでライオンズから先発も抑えもできる加藤初も獲得した(このとき東尾修もトレード候補だった)外野の名手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。コーチ陣も前年から一軍コーチで留任したのは黒江のみで打撃コーチには2軍監督だった国松彰が就任した。投手コーチに就任した杉下茂は鈴木龍二セ・リーグ会長からの要請で就任した。ヘッドコーチには極秘で長島とは同学年である南海の選手兼任監督野村克也に接触し、巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた野村は快諾した。ところが肝心の長嶋が首を縦に振らなかった為、“巨人・野村克也”は幻に終わり、野村は選手兼任監督で南海に残留した。翌1976年には最下位から一転、リーグ優勝を果たした。日本シリーズは阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れた。長嶋茂雄 フレッシュアイペディアより)

  • TBSラジオ エキサイトベースボール

    TBSラジオ エキサイトベースボールから見た張本勲張本勲

    なお、2018年2月4日と同月11日(いずれも日曜日)の19:00 - 20:00には、TBSラジオによるプロ野球中継65年の歴史を往年の実況音源や関係者の証言で振り返る特別番組『エキサイトベースボール Forever』を関東ローカルで放送。両日とも、松下をナビゲーター、TBSアナウンサーの堀井美香をナレーター(トークで名前が挙がった往年の同局スポーツアナウンサーや実況音源の状況紹介など)に起用した。1970年代までの歴史を取り上げた「Part1」(4日)には、毒蝮三太夫をスタジオゲストに迎えた一方で、王貞治と山田二郎(放送上の肩書は「TBSのレジェンドアナウンサー」)による対談の音源や、往年のスポーツアナウンサー(小坂・近江・吉川・渡辺・岡部・山田・石井智・平原晋太郎・松下)によるプロ野球名場面の実況音源(放送上の呼称は「炎の声」)を放送。1980年代から2017年までの中継を対象に、「TBS名物解説者(スタジオゲストの張本勲・田淵幸一・槙原寛己)と振り返る プロ野球記録と記憶の物語」と銘打った「Part2」(11日)でも、新旧のスポーツアナウンサー(松下・石川顕・林正浩・戸崎貴広・清水大輔・清原正博・初田啓介・土井敏之・小笠原亘・新タ悦男)による「炎の声」を随所で流した。TBSラジオ エキサイトベースボール フレッシュアイペディアより)

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