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礒部公一から見た梨田昌孝
入団当時の正捕手は的山哲也で、礒部は当時の近鉄に左打者が不足していたチーム事情から捕手兼外野手として一軍に定着した。佐々木は礒部を外野手にコンバートさせる意向を持っていたこともあり、はすべて外野手または代打として130試合に出場したほか、1試合だけ試合途中から二塁手に入っている。しかし的山は打力に難があったため、に監督に就任した梨田昌孝は礒部を捕手に戻すことを決断。顔面骨折による離脱もあったが捕手としては自己最多の87試合に出場した。打率.311と礒部の打力を見込んで捕手に再起用した梨田の期待に応えた一方、捕手としては強肩ではあったがスローイングに致命的な弱点があり(梨田は後に週刊ベースボールのコラムの中で「捕手としての礒部は送球の際にバックステップするクセがあり、この分の時間のロスでランナーを刺せなかった」とコメントしている)、この年の盗塁阻止率は当時のプロ野球ワーストとなる.109を記録している。バックステップについては1999年に一度も捕手を守らず、外野手の癖でバックステップが身につき阻止率低下につながったのではとされている(事実1998年は阻止率が3割を超えていた)。(礒部公一 フレッシュアイペディアより)
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2002年の日本プロ野球から見た梨田昌孝
8月14日 - 近鉄の監督梨田昌孝が14日のオリックス21回戦(神戸)の8回、内野ゴロの判定をめぐって抗議し、一塁塁審の杉本大成への暴力行為により、退場処分を受けた。(2002年の日本プロ野球 フレッシュアイペディアより)
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岩木康郎から見た梨田昌孝
浪速高校では1963年夏の甲子園府予選準決勝に進出するが、和田徹捕手のいた明星高に敗れ甲子園出場を逸する。明星高は甲子園で優勝。1964年に近鉄バファローズへ入団。二軍暮らしが長かったが、1969年に正捕手に抜擢され104試合に出場。しかし翌年には、移籍してきた辻佳紀に定位置を譲る。その後も辻とレギュラーを争うが、1974年に梨田昌孝が台頭したこともあって出番が減り、一軍出場は1974年が最後となった。1977年から3年間は二軍コーチ兼任で選手を続けたが、1979年限りで選手を引退し、翌年からは二軍コーチ補佐となり、代わって木村貴臣が選手兼任捕手となった。(岩木康郎 フレッシュアイペディアより)
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2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表から見た梨田昌孝
10月10日 - 日本代表「侍ジャパン」監督コーチ就任会見が行われ、監督に山本浩二の就任が発表された。また、コーチ陣には、元西武ライオンズ監督の東尾修、元日本ハム監督の梨田昌孝、与田剛、立浪和義、高代延博、緒方耕一の就任も発表された。11月16日の福岡ドームで行われる、国際親善試合キューバ戦より指揮を執る。親善試合である11月のキューバ戦では山本監督の選考ではなく、12球団の監督によるアンケート結果から代表選手を選出することとなった。(2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 フレッシュアイペディアより)
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