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藤島部屋から見た三重ノ海剛司
1980年11月場所中に現役を引退して、以降は出羽海部屋の部屋付き親方となっていた年寄・14代武蔵川(元横綱・三重ノ海)が、1981年8月に出羽海部屋から分家独立する形で武蔵川部屋を創設した。5代出羽ノ海(元横綱・常陸山)の「不許分家独立」の不文律により長年にわたり分家独立を認めていなかった出羽海部屋からは、1919年に当時まだ現役力士であった横綱・栃木山が5代出羽ノ海からの許可を受けて春日野部屋を創設して以来、実に62年ぶりの円満独立となった。荒川区に構えていた当時の部屋の地下1階には当時の相撲部屋としては珍しくトレーニングルームが完備されていた。(藤島部屋 フレッシュアイペディアより)
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武蔵海豊から見た三重ノ海剛司
小学校4年生から地域のスポーツクラブ春日館が新設した松山道場の創設メンバーとして相撲の稽古を始め、同じ松山市出身で1学後輩の吐合とはしばしば稽古相手を務め合っていた。松山道場からの初めての卒業生ということもあって地元で話題となり、同じ愛媛県出身で既に三役を間近にしていた玉春日に憧れて野村高校へ進学することも検討していたが、部屋への勧誘にやってきた先代武蔵川からは「憧れているなら早く大相撲に進んだ方がいい」と口説かれ入門を決意。中学校を卒業した1997年3月場所、武蔵川部屋から初土俵を踏む。四股名は本名の「山崎」。同期入門には同部屋で幕下付出入門の武雄山、同じく幕下付出の玉力道、出羽平、北勝岩のほか、琴禮らがいる。この場所は新序1番出世とし、翌5月場所、初めて番付に名前が載る。7戦全敗も経験するなど序二段でやや苦労したが、1999年11月場所で三段目に昇格。しばらく三段目と序二段を往復することが続いたが、2001年5月場所以降は三段目に定着、2003年11月場所では幕下へ昇進する。しかし怪我のため2005年9月場所から3場所全休をし、復帰場所の2006年3月場所では序二段まで落ちていた。復帰2場所目の同年5月場所は7戦全勝で同じく全勝の大翔勇との優勝決定戦に勝ち序二段優勝。同年11月場所で幕下に復帰した。(武蔵海豊 フレッシュアイペディアより)