-
文禄・慶長の役から見た済州島
嘉靖帝の時代の武力による海禁政策の厳格な施行で、かえって海外に拠点を持つ後期倭寇の活動は過激化して最盛期となった。王直などの中国人大頭目が率いる倭寇が、五島列島などを根城に活躍したのはこの頃である。1554年6月には済州島で唐人と倭人の同乗する船が朝鮮水軍と衝突する事件が起き、1555年には乙卯の倭変があり、倭冦が明の南京や朝鮮の全羅道を侵した。また1555年には達梁倭変があり、1557年に丁巳約条が締結された。後期倭寇はポルトガル人貿易と競合し、明の取締強化と、群雄割拠した戦国大名が勢力圏を広げて日本側の根拠地を追われたことで、衰退。1588年、秀吉の海賊停止令発布によって終息した。(文禄・慶長の役 フレッシュアイペディアより)
-
日本の慰安婦から見た済州島
いわゆる慰安婦論争が再燃する契機となったのは、元陸軍軍人を自称する吉田清治(本名:吉田雄兎)が自著『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年)で、軍の命令で自身が韓国の済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたと告白し、さらに1982年に樺太裁判で済州島で朝鮮人奴隷狩りを行ったと証言し、1983年7月に戦中済州島で自ら200人の女性を拉致し慰安婦にしたと証言する『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版したことに始まる。1983年11月10日には朝日新聞が「ひと」欄で吉田清治を紹介し、以後吉田を計16回取り上げて報道した。この吉田の著作内容はのちに済州新聞の許栄善記者や秦郁彦らの調査の末、捏造が指摘され吉田本人も創作と認めることとなるが、慰安婦問題は著作を離れ独り歩きすることとなる。最初期から吉田証言を取り上げ、吉田が創作を認めた後も史実として報道していた朝日新聞は32年の間、問題を放置し、2014年8月5日になってようやく独自検証の結果、吉田証言の証拠が見つからず、虚偽と認定し記事を撤回したものの謝罪はしなかったが、その後謝罪した。(日本の慰安婦 フレッシュアイペディアより)
注目ワード
キーワード一覧