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ニコラ・カビボから見た益川敏英
ローマ大学で学んだ。1963年ウィーク・ボゾンとクォークの弱い相互作用に関する新しい概念を導入した。1973年に3行3列の行列を導入した小林誠と益川敏英(ともに2008年ノーベル物理学賞受賞)と並んでカビボ‐小林‐益川行列と呼ばれる。1969年からローマ大学の教授になった。1983年から INFN(Instituto Nazionale di Fisica Nucleare:イタリア国立核物理学研究所)の所長、1993年からローマ教皇庁科学アカデミー (Pontifical Academy of Sciences) の会長になった。(ニコラ・カビボ フレッシュアイペディアより)
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みんなの森 ぎふメディアコスモスから見た益川敏英
メディアコスモスは岐阜市立中央図書館を中核施設とし、その他に市民活動交流センターや多目的ホールなどを備える。施設全体の総事業費は125億円であり、開館初年度の目標入場者数は年間100万人だった。岐阜県出身の物理学者・益川敏英が名誉館長に就任している。施設全体の職員数は岐阜市立図書館本館時代の20人から71人に増えており、人件費だけで年間2億9000万円と、旧館より2億円増加した。維持管理費約3億円、イベント事業費約1億円などをふくめて、メディアコスモスの運営には年間最低7億円を必要とする。(みんなの森 ぎふメディアコスモス フレッシュアイペディアより)
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高崎史彦から見た益川敏英
これらの困難を克服するために、ベル実験には400名以上の研究者が投入されたが、その中において生出勝宣や山内正則とともに中心的な役割を果たした。と山内は研究の計画立案から主導的な役割を果たし、生出は基本設計などで創意工夫を凝らした案を提示した。その結果、B中間子におけるCP対称性の破れを、世界で初めて発見するに至った。これらの成果は、2001年7月に開催された「レプトン・フォトン国際会議」にて発表された。これにより、小林誠と益川敏英が提唱した「小林・益川理論」の正しさが裏付けられることになった。なお、アメリカ合衆国のSLAC国立加速器研究所においても、ベル実験と同様に「BaBar実験」が行われていた。そのため、どちらが先にCP対称性の破れを見つけるかを10年に渡って競い合う展開となっていたが、双方ともほぼ同時に発見しており、極めて僅差での勝利であった。(高崎史彦 フレッシュアイペディアより)
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菅原寛孝から見た益川敏英
小林誠と益川敏英が提唱した「小林・益川理論」に早くから着目しており、その論文を日本国外に熱心に紹介した一人として知られている。この理論は発表当初あまり注目されていなかったが、この理論を岩崎洋一から紹介された菅原が、日本国外の物理学者らにも紹介した。しかし、国外からの反応もあまり芳しいものではなかったことから、菅原はサンディップ・パクバサとともに論文や講演を通じてこの理論を熱心に紹介するなど、学術界での認知度向上に力を尽くした。理論を発表した当時の状況について、益川は自身の論文が「ほとんど無視」されていたと述べている。そのうえで、益川は「菅原先生は、2つくらいしか違わないんだけど、大学ぐらいの時かな、アメリカに留学されて活躍されていたもんだから、当時じゃ大変有名な先生だった。その先生が、紹介して下さったということでまあ、公知され、少しずつリファレンスは増えていった」と述懐しており、菅原らの活動によって小林・益川理論が認知されたと語っている。小林と益川がノーベル物理学賞を受賞した際、かつて彼らと研究をともにした経験を持つ愛知大学名誉教授の坂東昌子は「この論文がここまで評価されたのは、菅原寛孝さんの貢献も大きかった」と指摘し「多くの研究者が『新粒子なんて…』という中で、KM論文の価値を見抜き海外に紹介した菅原さんの見識眼に尊敬の念を禁じえません」と評している。(菅原寛孝 フレッシュアイペディアより)