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  • 赤星憲広

    赤星憲広から見た日本テレビ放送網

    2010年より、日本テレビ・読売テレビの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に就任するとともに、なお、ゲスト解説出演の扱いで朝日放送(2011年からラジオのみ専属解説)、毎日放送、関西テレビ放送の中継にも出演。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

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    赤星憲広から見た金本知憲

    ''に金本知憲がFAで広島から移籍。キャンプ中、星野は事あるごとに金本・桧山進次郎・濱中治の名を挙げ、「赤星は代走要員」とコメント。キャンプにおいて赤星は必死に存在をアピールした。実際には星野の構想の中で赤星の中堅手レギュラーは確定しており、「赤星はガンガン言って、向かってこさせて伸びるタイプだから、あえてそういう発言をした」ものであった。シーズン中は2番打者として活躍。2番赤星が出塁し、3番の金本が打席に立つ状況が、互いの苗字から一文字をとって「金星ライン(ビーナスライン)」と呼ばれていた。9月15日に行なわれた対広島戦で、鶴田泰からサヨナラ安打を放ってマジック1とし、同日夜に阪神の18年ぶりの優勝が決定した。赤星はこのサヨナラヒットを、9年間の選手生活の中で最も印象に残る場面のひとつとして挙げている。前年秋から打撃コーチの田淵幸一とともに打撃向上に取り組んだことが功を奏し、3年目にして初めて3割を超える打率を記録した。赤星は2年間の経験から「パワーのない自分が人と同じ打ち方をして、打てるわけがない。逆に考えれば、人と違うことをすれば何とかなるのではないか」と思い、「バットを『振る』という意識から『ぶつける』という意識に変える」ことにし、「なるべく体の近くまでボールを呼び込んで、体全体の力をインパクトの瞬間にぶつける」ことを心がけた。赤星によるとこの年に「内角の厳しいコースに来たボールは体の回転をうまく使って処理をする」「ギリギリまでボールを見ることで、厳しいコースをカットして粘ることもできるし、フォアボールも増えて出塁率も上がる」打法を身につけ、「技術的にどうやったらヒットを打てるのかというコツみたいなものを身につけることができ」、「調子が悪くても何とかできる方法」を習得した。田淵は赤星を「われわれが目指した『つなぎの野球』は彼なしでは考えられなかった」と評している。盗塁数は球団記録を更新する61で、背番号と同じ数の盗塁をするという目標を初めて達成し、3年連続となる盗塁王を獲得した。赤星によると、この年の盗塁記録は3番の金本知憲が赤星が盗塁しやすいよう配慮した打撃をしたことに助けられて達成した部分が大きいという。さらに守備率10割の日本タイ記録を樹立し、2年ぶりのゴールデングラブ賞も受賞した。7月にはオールスターゲームに初出場を果たしている。福岡ダイエーホークスと対戦した日本シリーズ第1戦でフリオ・ズレータが打ったサヨナラ安打にダイビングキャッチを試み、左ひじを負傷(左ひじ内側側副靱帯損傷。全治1か月)。この時赤星はアテネオリンピックアジア予選の日本代表メンバーに選出されていたが、ケガを理由に出場を辞退した。なお赤星は、ダイビングキャッチを試みた際に「首を支点に頭から一回転」したことが後に頸部の椎間板ヘルニアを発症する原因になった可能性があると述べている。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

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    赤星憲広から見た福本豊

    ''、4月21日の対巨人戦で通算200盗塁を達成。同月には月間MVPにも選出された。赤星は自己最多の盗塁を決めながらチーム順位は4位に終わった前年のシーズンを「自分の盗塁が得点につながっていない。チームの勝ちにつながっていない」と感じ、得点にこだわるという目標を立てており、4月には「自分の思ったとおりの結果が出た」と振り返っている。6月12日、北海道日本ハムファイターズとの交流戦において、通算3本目、甲子園球場での初本塁打を記録。以後、引退までに本塁打を記録することはなく、結果的に最初で最後の本拠地本塁打となった。6月15日の西武ライオンズとの交流戦において盗塁を試みた際に相手選手と衝突、左肋骨3本を折る重傷を負う。しかし翌日の試合を欠場したものの長期欠場はしなかった。赤星曰くベンチに座っているのも辛いほどの痛みに苦しんだが、気合で克服した。7月にはオールスターに2度目の出場を果たした。10月1日の東京ヤクルトスワローズ戦では通算250盗塁も達成するとともに福本豊以来2人目となる3年連続60盗塁を達成。リーグ史上初の5年連続盗塁王も獲得した。さらに当時のシーズン最多打席(689打席)、イチローを抜く年間単打165のプロ野球新記録も樹立したが、同年阪神の全試合終了後に首位打者の青木宣親が169まで記録を更新した。この年のシーズンで阪神はリーグ優勝を果たしたが、千葉ロッテマリーンズと対戦した日本シリーズでは4連敗を喫した。赤星は「今度こそ日本一になるぞ」という思いで臨んだにもかかわらず「完全な力負け」で4連敗を喫したことについて、「野球人生最大の屈辱」と振り返っている。この年、赤星は「野球を通じて人間的に成長することができたという実感を次の世代に伝えたい」という思いから、中学生を対象とした野球チーム「レッドスター・ベースボールクラブ」を設立した。背景には、社会人の野球チームが次々と廃止され、子供が野球をする場所が減少しているという状況の中、2004年に1リーグ制導入を巡るストライキが起こったことで「プロ野球のチームでも簡単になくなってしまうことがある」ことに危機感を持ち、「ユースチームが組織されているJリーグのようにプロ野球の土台となるべき部分を構築したい」という動機もあった。赤星によると指導にあたることで「子供に教えたことは自分もしっかり実行しなければならない」という意識が芽生え、さらに「自分ならどうするか」といったことに考えを巡らせ、結果的に自身の野球に対する考えが深まる効果が生まれたという。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

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    赤星憲広から見た今岡誠

    ''から今岡誠に代わって阪神の選手会長を務めることになった。7月には2年連続でオールスターに出場した。一方盗塁数は35を記録したが、6年連続での盗塁王獲得はならなかった。赤星によるとこの年から盗塁に対する他球団の対策が強化され、「2005年までは、スタートを切った瞬間に、これはセーフだと思っていたタイミングが、2006年になるとアウトのタイミングに変わってきた」。この年のシーズンを境に赤星は実際に盗塁を試みるよりも自分自身に対する警戒感を利用して相手投手にプレッシャーをかけ、打者に集中することを妨げることを重視するようになったという。打撃面では打率、出塁率共に骨折した2002年に次いで低い数字に終わり、規定打席到達者の中で本塁打、打点、長打率がリーグワーストを記録した。赤星は「どこもおかしなところがないのに、結果が出ない。なぜ打てないかがわからないから対処のし様がなかった」と振り返っている。6月8日の日本ハム戦で守備中にフェンスに激突、右足首をねん挫し3試合欠場した。この年のシーズンについて赤星は、「それまで平均点以上の活躍を続けていた自分が初めてどん底を経験した」と振り返り、「プロの世界で生きていくことのプレッシャーを実感した」と述べている。赤星曰く、ある時は4日間眠れずに試合に出たこともあり、不振にあえぐ中でファンの声や報道が気になってそれらに接しては傷つくということを繰り返していたが、ある時「世間の評価をいちいち気にしていてもしょうがない」と考えるようになった。その結果、翌2007年のシーズンではファンやマスコミの声をあまり気にしなくなったという。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

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    赤星憲広から見た藤川球児

    入部当初、赤星は右打者であったが、監督の馬場茂から「左で打つならすぐにベンチに入れてやる」と左打者への転向を勧められ、それに従った。転向後、内野安打が増えて出塁の機会が多くなり、足を活かす野球を考えるきっかけになった。1年生の秋にレギュラーとなり、1番打者として活躍。チームの得点パターンは赤星が出塁して二盗・三盗を決め、その後スクイズプレイを決めるというものであった。の第65回選抜高等学校野球大会に二塁手として、翌の第66回選抜高等学校野球大会に遊撃手として出場した。選抜高等学校野球大会で赤星は2年連続で同じようなタイムリーエラーを犯し、チームはいずれの大会でも初戦敗退を喫している。このうち2回目のエラーについて赤星は、「またエラーをするんじゃないか」という思いに囚われていたところにボールが飛んできたことで起こったもので、技術の問題ではなくすべて気持ちの問題であったと振り返っている。2010年に藤川球児との対談で、高校時代の甲子園には非常に嫌な思い出しかないとコメントし、この対談時に初めて当時の映像を観覧した。赤星は、プレーをするにあたっては前向きな気持ちで臨むことが重要で、気持ちが前向きであれば結果的にエラーをしてしまったとしても後悔は残らず、失敗から学ぶことで次に繋がると述べている。なお、赤星は亜細亜大学2年時の明治神宮野球大会(三塁手として出場)でもタイムリーエラーを犯し、チームは0対1で敗退している。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

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    赤星憲広から見た阿部慎之助

    ''は年初から調子が悪く、肩の痛みや腰部のヘルニアに苦しんだ。オープン戦には肩と腰に痛み止めの注射を打って出場した。4月10日の試合後に腰の状態が悪化し、自ら登録抹消を申し出た。復帰後体調の悪化は全身におよび、腰のほか両膝と肩にも痛み止めの注射を打って出場した。4月4日、開幕2試合目の対ヤクルト戦で球団新記録となる通算351盗塁を達成。5月13日、出場登録日数が8年となり、FA権を取得した。8月2日の対巨人戦(阪神甲子園球場)で本塁への突入時に阿部慎之助捕手と接触し、左足を負傷(左下腿筋挫傷)。10日間欠場した。9月12日、甲子園球場で行われた対横浜ベイスターズ戦で内川聖一が打った右中間への飛球にダイビングキャッチを試み、頸椎椎間板ヘルニアが悪化すると同時に中心性脊髄損傷を負った。負傷直後は手足が動かなくなったほどの重症で、赤星はトレーナーに背負われてグラウンドから退場し、救急車で西宮市内の病院へ搬送された。赤星は手足が動かないことを自覚した時、「このまま戻らないんじゃないか」と思ったという。間もなく足は動くようになったものの、腕に深刻なダメージを受けた。感覚が鈍く、思うように動かすことができず、しかも何かに触れると激痛が走る症状に襲われた。医師は赤星に対し、指が以前のように動かせなくなる後遺症が残る可能性を指摘した。赤星によると日常生活に影響はないものの、右手親指と小指の痺れはその後も残っているという。赤星は「まだ野球がやりたい。来年もプレーする」という思いを抱きつつ、痛みに耐えながら手足の指を一本ずつ動かすところからリハビリを開始した。10月12日にリハビリの場所を阪神鳴尾浜球場に移した頃には60 kgあった握力が30 kgほどに戻っており、赤星は翌11月からユニフォームを着てリハビリを行う予定を立てた。しかし10月31日に球団側は引退を勧告。この時赤星は「引退しなさい。クビです」という、引退通告のニュアンスを感じ取ったという。赤星には「いくらなんでも1か月で結論を出すのは早すぎるだろう」という思いがあり「1年は様子を見てほしい」と猶予を求めた。赤星は診察した医師が現役続行は厳しいという見解を球団側に伝えていたことを知り、これを覆す見解を求めて全国の医院を巡ったがかえって症状の深刻さを知らされる羽目になり、「復帰する怖さみたいなもの」を感じるようになった。頸部を映したMRI画像を見たところ、「明らかに変形してグチャグチャ」になっていたという。11月4日には予定通りユニフォームを着てグラウンドに立ちキャッチボールなどを行ったが、8日に球団側と行った2度目の会談でも「大きなリスクを抱えた現状では契約できない」旨を通告された。11月16日、球団トレーナーの石原慎二に紹介された医師から、脊柱管を人工骨で広げ頸部脊柱管狭窄症は改善することで脊髄へのダメージを緩和できるようにすれば復帰は可能という診断を受け、そのことを球団側に伝えたが「いくら可能性があっても100%でない限り、その手術に賭けることはできない」と受け入れられなかった。この時赤星はそれまでの会談の内容から「絶対に球団の意見は変わらない」と予測していて、「やっぱりな…変わるわけがない」と感じた。赤星は球団側の姿勢について、「こちらの意見を聞いて考えようという姿勢は、僕には感じとれなかった」と述べている。赤星によると、医師から「今度やってしまったら不随の可能性がある。最悪、命の危険もある」と言われたことが引退を決意した要因の一つになったという。赤星はプロ入り後、「シーズンは144試合ある中で、プロとして大切なことは常に70パーセントぐらいの力をコンスタントに出すこと。でも僕は、みんな70パーセントの力を出すときに、100パーセントじゃないと勝負できない」という思いで試合に臨んでいた。赤星は「危険なプレーをしなければ万が一のことは起こらない」とも考えたものの、「100%の力、100%のパフォーマンス、100%の気持ちで試合に臨めるかといったら、どこかでセーブしないといけない自分がいたり、次にやってしまったらという恐怖感を持ったまま試合に臨まないといけない」「全力プレーができない状況で野球を続けるのは無理」という心境に至った。赤星はかねてから自身の引退について、「やれることはやりきる」「やりきれなくなったときが、現役を退くタイミング」と述べていた。12月2日、赤星は球団側に引退を申し入れた。赤星によると、前述のように「あと1年ぐらい様子を見てくれてもいいんじゃないか」という思いが球団に対してあり、自由契約となる選択肢も頭にあったが、最終的には阪神で野球人生を終えるという気持ちを全うさせることを選んだという。同月9日に西宮市内で記者会見を開き、引退を発表。会見において赤星は「ケガさえなければ来年もレギュラーでやっていく自信はあった。まだまだ若い選手に負けない気持ちもある。まだまだできるという気持ちもあった」「完全燃焼した気持ちはない」と述べた。赤星は負傷を招いたプレーについて、「今でも夢に出てくる」としつつ、「飛び込んだことに後悔はありません。野球選手の本能としてやったことなので。それよりも、もう少し寄っておけば捕れたのに…と考えてしまう」と振り返った。赤星は「あの最後のプレーで、自分が本当に野球人だと思えた」とも述べている。赤星は9年間のプロ生活について、「野球のために人生を全部使ってきたし、いろいろなことを犠牲にしてきた。人生のすべて」と振り返っている。生涯通算.295の打率については、「予定外でした。プロでこんなに打てるとは思ってなかった」「自分の中では誇れる数字」と述べている。会見には絶対に泣かないという決意で望み、3度涙をこらえたという。会見終了後、阪神甲子園球場のセンター付近で車椅子の贈呈式を行った。赤星自身の意向により、引退試合は行われなかった。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

  • 赤星憲広

    赤星憲広から見た関西テレビ放送

    2010年より、日本テレビ・読売テレビの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に就任するとともに、なお、ゲスト解説出演の扱いで朝日放送(2011年からラジオのみ専属解説)、毎日放送、関西テレビ放送の中継にも出演。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

  • 赤星憲広

    赤星憲広から見た讀賣テレビ放送

    2010年より、日本テレビ・読売テレビの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に就任するとともに、なお、ゲスト解説出演の扱いで朝日放送(2011年からラジオのみ専属解説)、毎日放送、関西テレビ放送の中継にも出演。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

  • 赤星憲広

    赤星憲広から見た野村謙二郎

    1年生の秋に三塁手のレギュラーを獲得し、2年生の春に外野手(主に右翼手)に転向。1学年上の外野手飯塚智広を目標とした。飯塚の卒業後、1番中堅手として活躍。4年生の秋には明治神宮野球大会で優勝を経験した。大学時代の通算成績は、東都大学1部リーグ通算78試合出場、219打数61安打、打率.279、3本塁打(リーグタイ記録の3試合連続本塁打)、27打点。ベストナイン3回、通算45盗塁(野村謙二郎の52、鈴木香の51に次ぐリーグ歴代3位の記録。1年生だった2部時代を含めれば通算51)というものであった。赤星は大学時代を振り返り、「プロのレベルまで上りつめられたのは、技術的にも、精神的にも、亜細亜に行ったおかげだろう」、「いろいろなものを犠牲にしてまでも野球に打ち込んで、あの4年の間、地獄のような生活をしてきたからこそ、こうやって今がんばっていられるのは間違いない」と述べる一方、「あそこに入って野球を始めた日から終わる日まで、一回もよかったと思ったことはない」「もう1回、あの4年間をやるかと言われたら、絶対に無理」「何億とお金を積まれても無理」「もう思い出したくもない」、練習が厳しいことを「もし知っていたら進学先に選んだかどうかははなはだ怪しい」と回顧している。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

  • 赤星憲広

    赤星憲広から見た藤本敦士

    ''、監督の野村は当時チーム内にいた俊足選手7人を「F1セブン」と命名し、赤星をその「1号車」に指名した。以下は藤本敦士(2号車)、沖原佳典(3号車)、上坂太一郎(4号車)、平下晃司(5号車)、松田匡司(6号車)、高波文一(7号車)であった。野村はまた、赤星が入団前に腰部のヘルニアを患った影響から調整が遅れていたにもかかわらず、一軍のキャンプに参加させた。前述のように赤星は非力で、2001年春のキャンプにおいても打球が内野の頭を越えないレベルであった(後に濱中治は「あの赤星さんがプロで活躍できるなんて、失礼ながら全く思いませんでした」と語っている)。野村は赤星に「出塁率を上げろ。三遊間に転がせ。内角も逃げるな」「打球が飛ぶというのは天性のもので、努力してもなかなか身につくものではないが、確率を上げることは練習で何とかなる」とアドバイスし、「自分の教えたようにやれば使える」と励ました。打撃練習においては藤本敦士とともに、「ゴム製のバンドを両ひじに巻いてゴロだけを打つ」ことを課せられた。赤星曰くこの練習により、右脇が開いてアッパースイング気味になる問題点が解消されていった。試合中、ベンチの中では野村の近くに座り、野村の発する言葉から「プロ野球のイロハを勉強させてもらった」という。赤星は「早い段階で、やみくもに努力するだけでは結果が出ない、考えてこそ結果に結びつくということを学べたのは大きかった」と振り返っている。走塁面の技術に関しては相当自信があり、クイックをきっちりやる投手が当時は少なかったことから「正直、プロでもこんなもんかと思った」という。赤星は1年目のシーズンを開幕一軍で迎えた。3月31日の対読売ジャイアンツ戦でセーフティーバントによるプロ初安打を記録。この安打について赤星は、相手投手が左投げの岡島秀樹で「簡単に凡退すれば、次に左ピッチャーと対戦する時に代打を送られる可能性が高くなる」場面であったことから、「たまたま一発で決まってラッキーな面もあった」と振り返っている。4月3日の対広島東洋カープ戦でプロ初盗塁を決めた。赤星はこの盗塁について、プロ生活における通算381個の盗塁の中で最も印象に残っていると振り返っている。5月にはレギュラーの座を獲得し、2番打者に定着して活躍。新人歴代4位となる39盗塁を記録し、阪神の選手としてはの吉田義男以来45年ぶり、阪神入団1年目の選手としてはの呉昌征以来となる盗塁王に輝き新人王も受賞。盗塁王と新人王のダブル受賞は史上初のことであった。さらにゴールデングラブ賞も受賞した。野村は赤星について、「よく練習していて、使おうという気にさせる選手だった」と評している。シーズンオフに入り、球団側から背番号53を若い番号へ変更することを打診される。一般的に新人選手は若い番号を与えられるほど期待されているといわれ、さらに53は「ゴミ」「誤算」に通じることから赤星自身も「入団当時は嫌で仕方がなかった」が、1年目からよい成績を残せたことで「『53』という数字は縁起のよい番号となり、愛着もわいた」「これを機に…『53』を自分の色に染めてやろう」と思うようになっていたことから変更を拒否した。2006年のシーズンオフにも片岡篤史がつけていた「8」への変更を打診されたが、拒否した。赤星憲広 フレッシュアイペディアより)

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