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間寛平から見た終戦の日
1949年7月20日、愛媛県との県境にある高知県宿毛市橋上町出井の出身。間の姓は母の再婚相手の姓であり、実父の姓は岡村。実父は寛平が生まれる直前に23歳の若さで結核で亡くなっている。岡村家は応仁の乱から逃げ延びた一条家の家老か何かだったと本家では伝えられており、長らく地元の庄屋をしていたが、明治の頃に一族の一人の放蕩が原因で寛平の実父が生まれた時には集落で一番貧乏になっていた。実父は分家筋の出身だが、彼の家は木材の切り出しなどで糊口を凌ぐなど一族全部が困窮を極める有様で育ったため、15歳で地元の営林署の木材切り出し人の給与算出係をし、太平洋戦争の終戦間際に海軍の兵卒に志願する(シゴキと結核に倒れて終戦は入院先の病院で迎えた)という苦労を重ねていた。実父と母の馴れ初めは戦後間もなく地元の青年会の演劇サークルであった。寛平が4歳の時に近所の人の紹介で母は木材の切り出しをしていた男性と再婚し、一家で宇和島市に転居。(間寛平 フレッシュアイペディアより)
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間寛平から見たさんまのまんま
生来、お人好しと無知が災いして次々と他人の借金の連帯保証人になってしまう。付いたあだ名は「歩くハンコ屋」。他にアメマバッジの失敗により6000万円(「さんまのまんま」でゲスト出演した時に自身が明かした)の借金を背負うが、妻の光代が必死の借金返済で当時0歳だった長女を連れて、街金の金融業者の前で長女をつねって泣かせて、金融業者を同情させる作戦で、借金の利子を免除してもらったと言う逸話がある(『いつみても波瀾万丈』で光代がゲスト出演した時に明らかになった)。普通の人間なら、利子を免除してもらえないのだが、当時、寛平も売れ出し始めたこともあり、寛平自身が家族を養う事が厳しかった事から、光代が必死に訴えた努力の甲斐が実り、利子を免除することができた(現在は完済)。(間寛平 フレッシュアイペディアより)