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趙良弼から見た陝西
クビライの一時的失脚の時期には、廉希憲と商挺の下で陝西宣撫司の参議となる。1260年、クビライに即位を勧め、再び陝西四川宣撫司の参議となる。渾都海の反乱では、汪惟正、劉黒馬と協議の上で関係者を処刑した。廉希憲と商挺はクビライの許可もなく処断したことを恐れ、謝罪の使者を出したが、趙良弼は使者に「全ての責任は自分にある」との書状を渡し、クビライはこの件での追及はしなかった。廉希憲と商挺が謀反を企んだと虚偽の告訴を受けた時には、その証人として告発者から指名されたが、激怒して恫喝するクビライに対してあくまでも2人の忠節を訴え疑念を晴らし、告発者は処刑された。(趙良弼 フレッシュアイペディアより)
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